倫理的立場
地域社会の在り方については、多様な考え方がある。これを多様であるとして放置するのではなく、多様さを捉える枠組みが必要である。 そして、他者と自らの立場を明らかにし、他者の存在を認めつつ、自らを主張していくこととなる。 ◎根元的道徳感情
@傷つけないこと A公平性 B内集団への忠誠 C権威への敬意 D神聖さ・純粋さ これらの根源的道徳感情は、人類の進化適応の中で獲得されたものであり、個々人については、遺伝あるいは個人の成長環境によって、その感情の強弱が形成される。 この道徳感情のうち始めの2つは、個人が価値観の中心におかれ「A.個人の尊厳」という規範としてまとめられる。後の3つは、社会が価値観の中心に置かれ「B.義務などへの拘束」という規範としてまとめられる。 そして、この2つの規範の強さは、脳の形態(部位の大きさ)と対応しており、前者については、背内側前頭前野との相関及び楔前部との逆相関があり、後者については、梁下回との相関及び島皮質との相関が見出されているということである。 (*)この項は、金井良太著『脳に刻まれたモラルの起源 人はなぜ善を求めるのか』岩波科学ライブラリー209 2013年を参照 ◎倫理規範の考え方(体系)政治心理学では、上述の2つの規範意識それぞれの強弱の組合せと政治意識が対応しているとされている。リバタリアンは、規範意識自体を忌避する姿勢がある。 保守は、義務などへの拘束は強く主張するが、個人の尊厳はそれほど重んじない。 リベラリストは、個人の尊厳を強く主張し、義務などへの拘束は忌避する。 双方の規範意識を強く捉えるのは、我が国には見出し難いが、宗教的左派となるそうである。
〇功利主義 功利主義はリバタリアンが主張する倫理規範である。 帰結主義とも呼ばれ、社会全体の効用がよければよいと考える立場である。ただし、効用の少ない者への補填を否定するものではない。 この考えは、「最大多数の最大幸福」の言葉のもとで、ベンサムによって提唱された。 J.S.ミルやピグー(厚生関数)等を経て、近代経済学は、基本的にこの立場にあると考えられる。 近年の経済学者では、ハイエクが挙げられ、イギリスのサッチャー首相が信奉者であった。 利己主義とは異なるが実態として区別されないことも多い。 今日、この立場で規制緩和など新自由主義の主張が展開されている。 社会格差拡大などの課題については、規制緩和により経済成長が実現し、その成果が滴下(トリクルダウン)することによって、全体が豊かになっていくとしている。しかし、このような考え方は、世界各国の経済動向の中では、実証されていないように思われる。経済学を始めとする人文社会科学者は、それぞれが主張する方向に偏って現実を判断する(理論負荷的)言説が多いことに留意しておく必要がある。 また、このような発想の中での行動規範は、法規制のみとなり、いわゆる資本主義の中での暴走が目立つようになっている。例えば、サブプライムローンなどといった金融工学的発想は、リバタリアンにとっては正当なのだろうか。 株式会社は株主利益を最大にすることが本旨という主張が流布しているが、本来、所得とは、価値のある財サービスを生産し、その対価として得るものと考えられる。企業は存続すべきもの(ゴーイングコンサーン)の理念の下で、非正規雇用の問題など他者に困難を押し付けるこなども再考が必要ではなかろうか。 さらには、いわゆる財テクの行動なども、これが生活の中で重きを占めるようでは、疑問を感じるが、功利主義とは守銭奴なのだろうか。 〇徳 徳は保守が主張する倫理規範であるが、コミュニタリアンの主張と重なる。 各自が生まれ育った地域文化(コミュニティ)の中で育まれる規範こそ、実際的な行動規範として成立しうるとして「徳」が主張される。 ここでは、勇気・博愛・正直・寛容・自制などの徳の項目が列挙され、その卓越性が問われる。 ただし全体主義には陥らず、政策レベルでは自由民主制に留まりつつも共同体の重要性を提唱する。 こうした発想は、プラトン、アリストテレスに遡るが、近年では、コミュニタリアンとしてM.サンデルらの主張がある。 コミユニタリアンは、現存の社会を肯定的に捉え、外的基準を持たず、現在の社会の中での徳を列挙するので、多くの人の賛同を得やすい。しかし、社会は漂流し易く、ファシズムの危険性を孕みがちである。 〇義務論 義務論は、理念から導出して得られる規範であり、リベラリストが賛同する。 普遍性を持つ倫理として主張されるものであり、「あなたの意志の格率が、常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」とするカントの定言命法に源がある。 これを基礎に、J.ロールズは、1971年に「正義論」を著し、「無知のヴェールの後での判断(自らが何者か知らないもとでの判断)」を求めている。以降、この議論を核に正義に関する膨大な議論がなされ、論者それぞれの立場も浮き彫りにされてきている。 ⇒詳述 義務論は、各自の理念に基づく発想となるため、社会としての方向性は容易にまとまらない。 このため、社会的意思決定には、公共圏での熟議が求められる。これは、J.ハーバーマスの主張したところであるが、N.ルーマンが批判するようにこれによって、社会的意思決定ができるか否かは心もとない。 ⇒詳述 ◎倫理観に基礎付けられた生き方倫理観が生理的に(脳の構造よって)決定されているとすれば、各自の倫理観の違いは解消できないこととなる。このため、各自は、それぞれの倫理観に基づき判断し、主張し、行動することとなる。この際、それぞれの倫理観の持つ危うさに十分配慮する必要がある。 義務などへの拘束を避けようとする倫理観であれば、自らの発想が社会的に整合性を持つのか主体的に考えてこそ、存立可能であろう。また、個人の尊厳を蔑にしがちな倫理観であれば、各個人の主体性を尊ぶ社会的仕組みを配慮してこそ受入れられるものとなろう。 ちなみに、こうした姿勢を強調すると、宗教的左派の倫理観に変容していくのかもしれない。 リベラリストが地域社会の在り方について語ることには、根源的な困難が伴っている。 個人的な考え方を主張するとしても、それを直接他者に強要する発想はなく、行動を興しそれが模倣(ミメーシス)されることを期待する。 こうした点から、社会を考えるキーワードとして「排除しない(包摂)」がでてくるのであろう。 関連項目に戻る (Dec.13,2014) |