公共を論じる場 ―新たな社会の舵取り―
1.漂流社会
失われた30年
井上俊によれば、日本人が、戦後において、自らの妥当性・正当性を疑い自らの生き方を検討したのは(「自省」したのは)、1970年前後の数年間だけであったという。
1970年前後は、戦後の復興、そしてアメリカを始めとする先進諸国に追いつき追い越せと頑張った時代が、一段落し、公害問題等も立ちはだかり、国のあり方を大いに議論した時期であった。特に、学生が問題意識を持ち、社会に疑問を投げかけた。
こうした自省の時代の中で、1971年にはニクソンショック(金ドル交換停止、為替レートの変動)、1973年にはオイルショックに遭遇した。このため、日本は、その経済的困難を乗り切ろうとひたすら努力し、また、身近に迫る公害問題の対処を進め、それなりに成果を収めた。このことによって、自らの生き方について一度は自省したことを忘れ、国全体としては国際社会に、そして各自にあってはそれぞれが属する組織に「適応」することに、ひたすら努力し続けることとなった。
しかし、自省を忘れ、理想を掲げて自らの経済社会を変革していこうとする「超越」する意識が伴わない社会は、漂流するばかりである(*)。特に、バブル経済崩壊以降は漂流していることを明確に意識せざるを得なくなっている。
失われた10年という表現があるが、日本が本来方向転換をする機会であった1970年代以降の方向性の喪失を踏まえれば、失われた30年が正しい理解かもしれない。そして特に、団塊の世代は、これまで、社会人として彷徨ってきただけであり、日本社会の形成に積極的な貢献は何もしてきていないのかもしれないし、その能力を形成しないまま、馬齢を重ねてきたのかもしれない。(残念ながら筆者のこの世代である。)
適応の時代の作法
1970年代に至り、「成長の限界」などの警告にもあったとおり、経済的成長をひたすら追えばこと足りる時代は、国際的にも終焉を向かえていた。しかし、新たな目標を見出せないまま、我々は、漂流を続けてきた。
霞ヶ関は、いつの間にか、全体の奉仕者でなく自らへの奉仕者に変わっていた。
永田町は選挙本位に国のあり方を考え続けてきた。
選挙民は、視野の狭い功利主義に囚われ、投票を続けてきた。
マスコミは、総合情報産業化し、購読者、視聴者の喜ぶ情報を提供すことを本旨とする中で、ジャーナリズムを喪失していた。
学者はタコツボの中で包括的視点、現場的視点を欠き、現実から遊離していた。
そして、国民一人ひとりは、それまで家族・地域社会で抱えていた機能の充足を外部の産業や行政に委ね、経済的勘定のみを関心事とするようになっている。
機能不全
こうした中で、行政は財政危機の中で課題への対応が困難になっている。
経済活動は、ひたすら再活性化を目指し、雇用への配慮は忘れ、所得資産格差の拡大、生活の崩壊を省みていない。また、地球温暖化への国としての責務も蔑ろにしている。
高齢化、人口減少の中で、さらに多くの混乱が始まりつつあり、各地の街も崩壊寸前にあるのだが、手をこまねいているばかりである。
2.公共を論じる
(1)見識ある市民の存在
選挙における投票など民主主義の諸制度には、一人ひとりの市民が社会全体のことを知っているという前提がある。各人は、諸般のことがらについて、それぞれの専門家ほどではないが、それなりの基本的知識を持ち、また、それを知ろうとする意欲と能力をもっていることが求められている。
しかし、現実には、各自がひたすら適応を旨としている社会では、このような前提には、大きな懸念が持たれる。
現象学的社会学のアルフレッド・シュッツは、知識のあり方をめぐって次の3つの理念型を提示している。
@Expert(専門家)
限定された専門領域の知識は明晰で一貫している。
AMan on the street(しろうと)
知識は、広い範囲に渡っていても、首尾一貫してはいない。また、処方箋的な知識で満足し、実用的目的以外のものごとに対しては感情的に対処していく。
これは、W.ミルズの「大衆」に対応する概念であろう。
BWell-informed citizen(見識ある市民)
当人に直接的な関係がなくても、いろいろな分野について、正当な根拠をもつ意見に到達すること目指し、多くの知識(情報)を得ようとする。
これは、W.ミルズの「公衆」に対応する概念であろう。
現実の個人が、特定の理念型に属しているというわけではない。特に、専門家は、各人にとって特定の分野で該当することがらである。
ただ、現下の情勢では、見識ある市民(公衆)であろうとする者は限られがちであり、しろうとが世論を形成していることは否めないであろう。
こうした社会では、「見識ある市民」を育てる場が求められるが、それがコミュニティの役割であり、また、教育機関の役割であろう。
(2)公共圏での熟議
また、当面の社会の舵取りとしては、見識ある市民が、真摯に考え議論(熟議)していく場を整え、さらに世論を牽引していく手段を仕掛けていくことが求められていよう。民主主義社会の中では、一見、嫌われそうな過程だが、新たな舵取りのためにその作法を見極めていく必要があることは間違いない。
ハーバーマスは、『コミュニケイション的行為の理論(1981)』で、市民が自由に議論する公共の場として、かつてのコーヒー・ハウスがこの役割を果たしていたと指摘している。
「公共」という言葉は、日本では、一般には、公共領域と私的領域という区分から、行政の諸活動の場を指す。このため、花田達朗は、これを区別して、市民に議論の場を「公共圏」と呼ぶことを提唱している。
これまで日本にはこのような言論空間が存在しなかったとされる。本来マスコミがこのような役割を果たすことを期待されるが、総合情報産業化したマスコミにとって、ジャーナリズムの発揮は一層困難になってきている。
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(Dec.13,2014Rev./Jul.21,2004_Orig)
| 制御能力 |
低い | 高い |
合意 形成 能力 | 低い | 受動的社会(passive) 多くの発展途上国 | 過剰管理社会(overmanaged) 全体主義的国家 |
高い | 漂流社会(drifting) 資本主義的民主的社会 | 能動的社会(active) 脱近代社会以後の未来社会 |
【漂流社会】
「漂流社会」とは、アミタイ・エチオーニが社会をその意思形成能力と制御能力から分類した類型の一つであり、資本主義的民主的社会であり、合意の形成能力はありながらも、社会を制御していく能力に欠ける社会をいう。
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