政治哲学の広がり
―入門のための仮説的枠組み―

 近年の地域政策の展開そして国における法律改正を包括的に眺めると、規制緩和を主張する自由主義(リベラリズム)と地域社会の再活性化を主張する共同体主義(コミュニタリアニズム)の両方向の発想が混在したまま政策が展開しているように見られる。
 地域のあり方を考える者にとっては、このような政治思想の広がりをどう理解し、どう対応していけばいいのか、政治哲学の基本に戻って検討しておく必要がある。
 しかし、多くの政治哲学者あるいは社会学者等々が議論を重ねており、簡潔な整理がてぎるものではない。また、小生自身、その能力を持ち合わせてはいない。
 ここでは、こうした分野の広がりを把握しておくための初歩的なアプローチとして、主としてWWWのサイトから得られた情報により、小生なりの理解の出発点における骨格を提示しておく。
 内容に多くの誤解が含まれている可能性があり、ここから直接引用することなどは、控えた方がよいであろう。



J.ロールズ(リベラリスト)
 1971年、J.ロールズは、大作である『正義論』を著した。正義に関する緻密な議論を展開しており、その後、多くの人が、これを足場にして、議論を展開している。こうした議論の出発点として、まず眺めておく必要があろう。
 ロールズの「正義」についての考え方の骨子は、「無知のヴェール」の後で判断することを前提に、即ち、ポーカーで言えばカードが配られる前の状態で自分がどのような位置にいるか知らない状態で、正義とは何かを判断することとして、2つの原理を掲げている。
@あらゆる人が平等の権利を持ち、他の人々の同様な自由と両立しうる限りにおいて、最大限広範囲にわたる自由でなければならない。
A社会経済的不平等を認める場合の条件
a.それらの不公平が最も不遇な立場にある人の期待便益を最大化すること。【マックス・ミニ原理】
b.すべての人に開かれている職務や地位に付随するものでしかないこと。【機会均等原理】

 こうした考え方は、ベンサム、ミル流の功利主義的発想を批判し、 ロック、カント、ルソーの社会契約説を洗練したものとされている。

 なお、ノーベル賞経済学者のA.センは、ロールズの議論に対して、財ベースの平等論はいわゆる物神崇拝(フェティシズム)であり、「基本的潜在能力(basic capabilities)」ベースの平等原理を提案している。例えば健常者と身体障害者を並べた場合、同等の物理的条件でも必ずしも平等と言えず、それぞれにとって何が可能であるかを配慮すべきという指摘である。


R.ノージック(リバタリアン)
 ロールズの正義論に対して、まず1970年代に議論となったのは、『アナーキー・国家・ユートピア』を著したR.ノージックの主張である(ロールズ=ノージック論争)。
 ノージックは、
「自分が正しい手段で獲得した富を、平等や集計最大化の名の下で強制的に徴収されることを拒絶。」

 これは、自由至上主義(ネオリベラリズム)であり、ノージック等は、リバタリアンと称されている。
 また、この主張は、現在のグローバル・スタンダードの基本であるとも考えられる。

 ただ、現実世界の不平等は歴史的な獲得の不正義、例えば帝国主義的侵略や奴隷制度などが原因になっている場合が多い。このため「匡正の正義」論からみれば、ネオリベラリズムの主張には限界があると考えられる。

 なお、経済学では、『隷従への道』を著したハイエクの主張がノージックの主張に対応しており、
 ハイエクは、
 「国家の役割を増やすこと自体を自由への脅威であると主張。」

 ちなみに、M.サッチャーはハイエクの信奉者であり、イギリスの首相としての施策は、この発想に裏打ちされていた。

 このような、リベタリアンの議論を極論するとアナーキズムにいきつく。


M.サンデル(コミュニタリアン)
 一方、1980年代になって、反対側から疑問が提起されている(リベラル=コミュニタリアニズム論争)。
 サンデルは、ロールズが想定する無知のヴェールの仮定は、性別、人種、家族、等々の属性にかかわらず(負荷なき自我(unencumbered self)の姿で)アイデンティティを形成することができるという想定であり、現実的世界を離れて意味を持たないと主張する。
 人は生まれ育った環境の中でこそ存在するのであって、特定の共同体への「愛着 (attachment)」こそが個々人のアイデンティティーを現実的に構成している。このため、社会の共同的で実質的な価値観、共有された「善」の観念にこそ我々の規範を基づけねばならない。


 なお、特にコミュニタリアンについては、マッキンタイア、テーラー、ワルツァー、エッチオーニ等々の幅広い論者が含まれ、サンデルはそのうちの一人と捉えておく必要がある。

 このような、コミュニタリアンの議論を極論すると、全体主義あるいは、共産主義にいきつく。


A.ギデンズ(第三の道)
 イギリスのブレアは、労働党において「ニュー・レーバー」と称し、第三の道を提唱することによって首相となった。現在、この思想は、ヨーロッパの政治の場で広まっているとされる。
 「第三の道」は、イギリスの社会学者A.ギデンズの提唱するものであり、リベラリズムとコミュニタリアニズムのバランスさせる道と捉えることができよう。
 自由競争や市場の価値も認めるが、「持つものがますます持つ」ということになり勝者による市場の独占が進むことになる可能性があり、万能ではない。
 また、自由競争といっても、競争に参加する機会の平等が保障されていなければ本当の自由とは言えない。最低限のセーフティーネットを張り、一度競争に敗れた人でも敗者復活できるようにすることが必要であろう。
 この競争の機会を開くために個人の自立を促進することが政府の役割と捉えられている。

「第三の道」改革とは、平等という言葉、福祉という言葉を再定義した上で「平等な福祉社会を目指す」改革を意味する。
 平等な社会とは「排除」される者のいない社会のことを言う。働く意欲を持ちながら働く場所から排除される失業者が、排除される者の典型例である。
 これまでの福祉は、高齢者や失業者のように社会的にネガティブな立場の人への生活費の支給を主眼としてきた。これからの福祉は「人的資本への投資の原資を提供する」というポジティブな役割を担わねばならない。と同時に、たとえば転職というリスクに挑戦する人々への報奨金の役割も担うべきだ。


 なお、リベラリズムとコミュニタリアニズムを調和させる議論として、新しい共和制(リパブリカニズム)の議論も注目されているようである。


 いずれにしろ、日本なりに、自由と共同の調和する道を探っていくことが必要であろう。
 これは、行政だけでなく「市民」にも課された問題である。
 日本で共同体の議論をやると、かつての地縁社会に縛り付ける議論になりかねないが、自由を十分に許容した上で、なおかつ多少は地域づくりへの参画の要請も受けたボランタリーな行動で成り立つ共同体が実現できるかが課題となっているのであろう。


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(Dec.13,2014Rev./Jui.14,2004_Orig.)