国際秩序という概念

 世界の多くの戦争の歴史を見ると、相手に隙があり弱ければいつでも攻め込み領土等を自分のものにしようとしていたようだ。為政者には、相手の立場を慮ろうとする発想などなかったようだ。
 勿論、侵略に対する抵抗を弱めるための対策はいろいろとなされていた。

 また、戦う際には、正当性があると一応の説明をすることがあった。しかし、それはかなり疑問のあるいい訳である。例えば同一民族が何世代も居住してきた特定の領域に、かつては我々が住んでいたと言って侵略することは如何であろうか。その土地で内部にいる異民族をあるいは異教徒を虐げているのであれば、それを助けるというのは肯定されるかもしれないが、このような純粋な奇特な事例はあるのだろうか。今日のイスラエルの振る舞いをどう捉えるか。あるいは、レコンキスタについては、ヨーロッパの視点から見れば正当となんとなく思ってしまうかもしれない。しかし、何世代も住んできた人々にとっては、どう捉えられるのであろうか。当時の現地の様子をつぶさに知っていないと判断できない。また、十字軍などもヨーロッパの視点からは納得できるかもしれないが、かなり怪しい行動である。

 実は、これらは、今日の視点からの検討である。そもそも国際的秩序を守ろうという概念は、第二次世界大戦後に初めて欧米で共有された概念だという説がある。
 現在の日本人は、こうした概念が流布する中で生涯を生活してきており、国際平和を求めることをごく自然に考えている。しかし、歴史的に見て、そして地理的に見て、特殊な発想かもしれない。
 日本国憲法の前文「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」は、こうした第二次世界大戦後の新しい概念を背景を持ったものであろう。

 こうした新しい概念は、人類が新しい階梯に一歩上ったと解釈したいのだが、早とちりかもしれない。
 今日、国際秩序を守るべきとは誰もが表面的には主張するかもしれない。しかし、ロシアや中国等の発言は信用できるだろうか。トランプ大統領の言行も怪しい。さらには我が国の為政者等もどの程度強く思っているだろうか。また、専ら利潤を求める資本家なども危うい側面があるようだ。争って利潤を得るという発想自体に脆弱性がある。

 一貫した正しさを求めるのでなく、直面した取引での利得を求めるという姿勢では、成り行きとして社会が混乱することとなろう。これでは人類が地球温暖化に対応できないのは当然である。

Mar.01,2025

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