漂流社会富山 ―高度成長期後の富山の経緯―
我が国の動き
戦後の高度経済成長が1970年代初めの石油危機で終了した。しかし、我が国は様々な努力により、貿易を拡大させ、活力を維持したことにより、地域間の格差も少ない一億総中流社会を定着させた。1970年代末にはジャパンアズナンバーワンと呼ばれるに至っている。
1980年半ばに、貿易主導の経済展開を調整すべくアメリカからの要請を受けて、内需主導へと移行させたが、結果としてバブル経済を招来した。
1990年代に入って、このバブル経済が崩壊した。その後の落ち込みから回復を図ろうとしてきたが停滞・低成長経済が続いている。また、中国を始めとする発展途上国の経済的離陸があり、情報技術の発展浸透とも重なって経済活動のグローバル化が一層進んでいる。こうした中で雇用環境の悪化が進み、所得格差の拡大など厳しさが増している。
2000ゼロ年代には我が国全体としての人口減少が始まり、高齢化と併せて人口問題が困難な課題として表面化してきた。さらに、これまでの景気浮揚策や大震災からの復興策の展開等の結果、国・地方の財政も膨大な負債を抱え厳しい状況に陥っている。他方、地球温暖化を始めとして、国際的にも解決困難な課題がいろいろと出てきている。
「漂流社会」とは、A.エチオーニが社会をその意思形成能力と制御能力から分類した類型の一つである。資本主義的民主的社会であり、合意の形成能力はありながらも、社会を制御していく能力に欠ける社会をいう。日本は、漂流社会だという見方があると考えられるが、その中でも富山県も漂流社会の典型的な存在となっているのではなかろうか。
以下、富山県の各分野毎のこれまでの推移と課題を個別に見ておく。
生活の変化
豊かな生活には、所得の確保とともに、安定し、安心た生活を送ることができる仕掛けが必要である。また、生活を楽しむ場も求められよう。基本的にはそれなりの世帯の形成が求められるが、仮に単身でも生きていける必要があろう。また、社会保障制度による支援も欠かせない。
(世帯)
富山県の世帯は、相対的に多世代家族も多く、世帯当たり人員数が大きい。これによって世帯に稼ぎ手が多く、女性の年齢別就業率のM字カーブの窪みも浅く、年金受給者もいて、支え合って足腰の強い生活を送っている。結果として、生活保護の受給率も極めて低い。
しかし、その是非はともかく、未婚率の上昇、合計特殊出生率の低下なども進み、世帯規模は急速に縮小してきている。
(県民意識)
かつては富山県では家族等を大事にする気持ちが高かったが、その後低くなったというNHKの県民意識調査がある。また、人と人の繋がりを表わす社会関係資本について富山県はかなり低いという分析もある。都道府県毎の人々の意識を確実に把握することは容易でないが、かつて家族地域社会がしっかりと支え合っているのが富山県の特徴と捉えていたが、かなり変わってきているのかもしれない。
ボランタリィな活動については町内会の清掃等への参加率は高いが、その他については必ずしも高くないようだ。また、1980年代末のNPO法人の制度化後の法人設立については、当初は富山県では他地域に比べてかなり鈍かったが、県の旗振り等を受けて平均並みになった経緯もある。
(高齢者福祉)
かつて1970年代では、富山県での高齢者に対する老人ホーム収容定員数の比率は、都道府県の中でも最も低かった。これは、高齢者に必要な支援を世帯で相当程度できるためとされていた。しかし、その後の福祉政策の充実の過程で、老人ホームの整備に力を入れ、収容定員数の高齢者に対する比率は全国平均を超えている。この結果、介護保険支給額のうち施設サービスの比率は、全国でも最も大きくなっている。
(教育)
教育・学習に関しては、全国統一テストでは、高い成績を収めている。
また、近年の中学校不登校生徒率は、努力して都道府県の中でも低い県となっている。ただし、小学校不登校児童率は、全国平均水準のままである。なお、地域住民が学校運営に参画するコミュニティスクールの制度があるが、現時点で一校もない都道府県は全国の中で、北陸3県を含む5県のみとなっている。富山県では、このような住民参画は苦手なようだ。
大学短大への進学率については、我が国では、20世紀末から10%ポイント以上上昇しているが。富山県の進学率はこれに先駆けて上昇し、1990年代には都道府県の中でも特に進学率の高い県となった。現在は、減少気味に推移しており、その水準も全国平均に近くなっている。
(健康)
健康環境について、富山県の平均寿命はかつて1960年代までは都道府県の中でも特に低かった。しかし食生活改善運動などにより1980年代半ばには全国値を超えている。ちなみに各都道府県の平均寿命と健康寿命にあまり相関はないが、富山県の健康寿命は男女とも全国平均を上回っており、非健康期間は全国平均より若干短い。
産業の展開
まず、豊かさの基礎となる所得については、富山県は都道府県の中でもかなり高い。例えば、一人当たり県民所得は、バブル経済期には47都道府県中の10番台に落ち込んでいたが、それ以外は概ね5番前後で推移してきた。リーマンショックのため、2009年度はかなり落ち込んだが、2012年度は6番目の高さとなっている。ただし、県民所得はそのまま個人の所得となる訳でない。
ちなみに家計調査での世帯当たり実収入を見てもやはり高い位置にある。二人以上勤労者世帯の実収入は、1990年代後半にピークがあったが、この時期は、富山県の実収入は都道府県の中でも抜きんでて高かった。1990年代末以降、世帯の実収入は、次第に縮小したが、これは、勤労による所得自体の縮小とともに、団塊ジュニア世代の世帯分離による世帯規模の縮小が大きな要因になっていると考えられる。その後、景気動向も安定してきた2010年代に入って、実収入は横這い状態となっている。
以上のような高い所得水準にあるのは、しっかりと働く場があるためであり、富山県での産業活動は、モノづくり産業のウエイトが特に高い。
(製造業)
製造業について、戦後は、新産業都市建設を経て一層の拡大を遂げてきた。1980年代は、戦後起業された地場の多くの企業がそれぞれの創業者に率いられて活発に事業を展開しており、輝いていた。1980年年代の半ばには、技術革新を重視したテクノポリス計画の展開があったが、テクノポス財団の設立などの法制的枠組みは、富山県でのその時点で既になされていた活動がかなり参考にされている。
1990年代にあっては、経済活動の一層のグローバル化、中国をはじめとする東アジア、東南アジア等の発展途上国の離陸があり、多くの富山県の企業も国際進出を進めた。他方、製造業等の雇用の維持が厳しくなり、雇用の非正規化等が進んでいる。ただし、富山県では地場企業の努力により非正規雇用は相対的に少ない。いずれにしろ、我が国経済が離陸する周辺諸国にキャッチアップされることに対応した社会経済構造が形成されてきていない。
(建設)
富山県で建設業の就業者の構成比が高いのは、公共事業が積極的に展開されてきたためである。各種基盤施設の整備は概ね1970年代頃から順次概成してきたが、補助金の受け入れとともに、景気浮揚、雇用維持の意味もあって高水準で継続されてきた。しかし、1990年代後半からは、財政的限界から大きく減少してきている。
なお、住宅建設については全国ベースの大手ハウスビルダーに席巻されず、地場の事業者が健在である。
(小売業)
小売業は、富山平野に分散して住む人々の需要に応え小規模な店舗が多数あったため、自動車社会の形成等のなかで店舗数の減少が急速に進んできた。また同時に、スーパー等の大型店の進出があり、商店街の衰退等が進んだ。ちなみに大規模小売店舗法の制定は1973年であった。
こうした中で、富山県では、意欲のある小売業者は共同店舗を整備してきた。例えば、1977年には、福光のベルが創設されている。都道府県の中でも共同店舗の数は特に多くなっている。また、各地の商店街の街灯、アーケードの設置などの整備も積極的に進められた。
しかし、ロードサイド店、郊外大型店の建設がさらに進み、2000年には大規模小売店舗法の廃止に至った。これと同時に婦中ファボーレ(2000年)、高岡イオン(2002年)のショッピングモール建設がなされている。
今日では、アルビス、大阪屋といった地場の食品スーパーなどが積極的に事業展開を図っており、一方でコンビニエンスストアも増え、総合スーパー、専門スーパーとともに厳しい事業展開となっている。
さらに、2015年には、小矢部のアウトレットモール、射水のウェアハウス・クラブ(コストコ)などの開店があった。
(サービス業)
サービス業については、浴場など古くから自然発生的に生まれたサービスは小規模事業所が数多くあった。これは、富山平野に分散して住んでいる人々の需要に応えた結果といえよう。しかし、小売業と同様に急速に減少してきている。
これに対して、学校や福祉施設のように政策等によって整備されたサービスは事業所が少なく、相対的に事業所の規模が大きくなっていると言えそうである。なお、人口の高齢化の中で、老人福祉施設は急速に増加してきた。
また、外食の普及が他地域に比べて遅れたようで、飲食業は遅れて立ち上がった。
他方、都市的なサービスである娯楽、宿泊施設は少ない。
(農業)
農業については、稲作兼業が続いてきている。集落営農は他地域に比べて普及しているが、中核となって働く者は少なく、企業化というより、農地管理の手段であるようだ。
第六次産業化の掛け声があり、幾つかの事業が立ち上がっているようだが、担い手が見え難い。
各種基盤施設の整備
最後に、県民生活、産業活動の環境として各種基盤施設の整備の推移について見ておく。
(土地利用)
長期的には、富山市に向かった人口移動が進んでいるが、人口が新たに張り付いて増加しているのは、既存都市の周辺部である。富山高岡広域都市計画地域の周辺は非線引き都市計画区域の非用途地域であり、農振農用地区域も多い。このため、団塊ジュニア世代が結婚し住宅を持った1990年代には特に農用地の転用が多かった。また、富山市等の市町村合併に際して、旧大山町などでは新たな小規模住宅団地が幾つも造成されている。旧婦中町での農地転用については、カドミ汚染田への対応もあり土地利用のけじめが混乱し、無秩序な都市的整備が進んできた。かつて整備されたねむの木団地は土地利用制度を遵守し都市地域からかなり離れた市街化調整区域の外側にあるのだが、このような本来の土地利用計画は既に忘れられている。農業関係者が農地を守ろうとする姿勢は極めて弱いようだ。むしろ都市計画法によって線引き都市計画区域の市街化調整区域の農地の方が守られている。ただし、市街化調整区域の都市的整備は、月岡住宅団地やリハビリ病院など行政が率先しているようにも見られる。
なお、2000ゼロ年代の富山県の土地利用計画では、既に2000年時点で年々の農地の転用量が減少しつつあったが、転用の目標を年平均概ね2000年実績と同等の約450haとにしている。実際の転用面積はそれ以降年々減少したのだが、県には農地の転用を抑制する意思がないようである。
(道路)
我が国では、自動車の普及とともに膨大な道路建設が続けられ、公共事業の中で最も大きな金額となっている。道路建設の特定財源の扱いとともに個別の各個所についてのそれぞれの利用者の建設要求、これまでの計画変更の困難性などから、際限のない整備が続けられている。
富山県の道路は、道路整備率からみて全国でも最も充実しているが、さらに工事が続けられ、年々の伸び率も都道府県の中でも特に高くなっている。これは、富山県では平野部の事業が主体で、同じ建設費でも、道路延長・面積が容易に拡張するからであろう。国からの補助がある制度では、その予算の枠内で優先度が高い工事を選択し実施されることとなり、総工事量の多寡は、地域なりの検討がなされないようだ。
(治水)
治水事業に関連し、ダムの建設については、民主党政権での事業仕分で話題となった八ツ場ダムと同様の課題を抱えている。1980年代当初の県民総合計画策定の際に、長期的な人口推移等から見て、ダムの建設を控えていくべきことが確認されているが、実際には、宇奈月ダムの建設が行われたし、利賀ダムなど建設が続いている。双方とも国の直轄事業であり県は負担金を国に支払っている。
ちなみに、近年、都市内部での浸水被害が起きているが、これは、気象環境の変化もあろうが、農地の転用での保水力の低下の影響も大きいと見られる。
(下水道)
富山県は分散居住で、DID人口の比率もかなり低いのだが、汚水処理は合併浄化槽でなく下水道の利用が太宗を占めている。
1970年の下水道法改正に基づく流域下水道整備を小矢部川・神通川左岸に計画し、延々と整備を続けてきた。富山県全体としては下水道建設は最盛期を超えており、総人口に対する下水道普及率は80%を超え都道府県の中でもかなり高い。
ただ、人々が富山平野に分散して住んでいる中で、下水道整備を進めてきており、効率の悪い整備となっている。汚水処理については、合併浄化槽を利用する方法もあるのだが、いったん整備計画が決定された後の変更はできず、南砺市の各旧町村などかなり居住密度の低い地域まで下水道が整備されてきた。
(住宅)
富山県では持ち家率が高く、若い人が結婚し世帯を形成するとほどなく住宅を建設する傾向がある。このため、これまでの年々の住宅建設戸数の推移については、団塊の世代に対応した1970年代前半、団塊ジュニア世代に対応した1990年代後半に持家建築がピークとなっている。また、バブル経済期1980年代の末には貸家の建築が、その後は、景気浮揚策に伴った貸家建築のピークがあった。さらに団塊の世代の退職金の資産運用を目的としたものと見られる長屋建て住宅の建築戸数が増え、一定水準の貸家建築が続いている。
他方、全国では空き家戸数が増えており、富山県でも同様に増加している。
(県財政)
道路建設を始めとする多様な基盤施設の積極的な整備、さらには新幹線の建設の結果、富山県の公債残高は人口一人り当たり100万円を超えており都道府県の中でも負債の多い県となっている。
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はじめに
表紙
(Feb.21,2016Rev./Aug.24,2015Orig.)
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