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大転換

(1) 大転換の必要性
(2) 必要な対応
(3) 新たな時代の目標
(4) 正しい行動

 「大転換」は、カール・ポランニーが1944年に著した経済人類学の書籍の表題である。資本主義は歴史的に見て異常な存在としている。21世紀の今日にあっても、改めて、経済社会の在り方を根底から考え直す必要かあろう。


(1) 大転換の必要性
 まず、大転換の必要性について、皆が共通の認識を持つことが求められる。ここでは、私なりの理解を整理しておく。その賛否はともかく、とにかくこれを深く議論すること(熟議)が重要だと考えられる。
 大転換が必要な事項はいずれも長年放置してきた課題で、対応困難なものとなっている。


地球温暖化
 1980年代末のアメリカの干ばつを契機に、人類の炭酸ガス等の排出によって地球の温暖化が進んでいることが世界の共通認識になっている。北欧などの一部の国では即座に炭素税の導入などを図っているが、地球全体では対応が進んでいない。パリ協定に関して、日本は世界の顰蹙を買う削減目標を提示しているが、これさえも達成するシナリオを持たず、日本の経済社会は自壊していく可能性が高くなってきている。
人口変動
 1970年代前半に我が国の合計特殊出生率の低下が始まり、将来人口の減少、高齢化は、はっきりと見通されていた。ちなみに、この合計特殊出生率の低下は人口学の分野ではそれ以前から予想されていたことである。
 しかし、当初政府は、合計特殊出生率の低下は回復すると強弁し続け、政策の転換を図ろうとはしなかった。人口減少が実際に進み始め、初めて問題視し、子どもを生み育てることができる社会の構築を議論し始めた。今日、この対応はもとより、社会保障を始めとする多くの政策の方向転換の効果的な政策は打ち出されていない。むしろ年金の実態などを隠蔽し続けようとさえしている。
財政的限界
 1970年代末から財政の重要な部分を占める基盤施設整備への歳出(政府固定資本形成)の削減が始められた。しかし、1985年のアメリカからの要請(プラザ合意)で再び増加が始まり、バブル経済をもたらすに至り、その後は景気浮揚策として大きな歳出が続けられた。21世紀に入ってからは無い袖は振れないということで大きく削減されている。しかし、これまでの債務の返済と社会保障費等の拡大で、我が国、各自治体の財政は厳しい状況にある。
 財政の中央集権的システムにより、地方政府は採算性を度外視した要望を国に出し続け、各地域から選出される国会議員もこれを制御しようとする動機は持ち合わせていない。
金融資本主義市場経済の混沌
 1990年代半ば、バブル経済の崩壊から立ち直れない中で、経済同友会の舞浜会議(1994年)、日本経済連合会の報告(1995年)などで、経済界は雇用維持の責任放棄を明確に宣言し、政府に対応を転嫁している。しかし、政府は真摯に受け止めず、むしろ経済活動の活性化として、自己責任論を展開し、雇用環境の困難化に拍車をかけてきたようにもみられる。この結果、社会階層の形成・固定的化という事態が起きているようである。
 企業は株主利益の拡大を最優先とし、法律に触れなければ何をやってもいい、見つからなければ何をやってもいいという気風にさえなっている。経済学に倫理を挟まないという主張があるが、現実の企業行動で非倫理的行動が許容されるわけではない。

・なお国防を含む外交の問題にも困難な課題があるが、ここでの関心事は地域の戦略であり省く。ただし、地域にあっても、誇りある生き方に努め、世界から尊敬され蔑ろにされない生き方を目指すことが基本と考えている。


(2) 必要な対応
 次に大転換に必要な環境を検討する。
地球温暖化対応
 地球温暖化については、たとえ困難が多いとしても、温暖化ガスをほとんど排出しないまでに社会・経済を切り替えていくべきことは確かである。
 富山県での消費生活では、まず冷暖房に関連する排出が目立つ。これは気象条件とともに住宅が広いことも影響しているが、各自なりに対応を工夫していく必要がある。また、自動車も大きな排出源だが、日常生活での利用削減と共に、利用の必要性を引き下げるため、公共交通の充実したコンパクトな街を形成し、集まって住むように切り替えていかなければならない。これは、高齢者の生活を支えるものともなる。なお飛行機の利用も温暖化ガスの排出が極めて大きい。個々人によって利用の度合いは異なるだろうが、意識しておくべきである。経済が低迷する中で、我が国はもとより世界各国でも観光産業の振興が叫ばれているが、残念ながら誤った方向であろう。
 一方、再生可能エネルギーの開発に力を入れることも重要であろう。火力発電の削減に真摯に取組む必要がある。ただし、原子力発電も安全性からみて選択肢ではない。このことから、小水力発電、太陽光・風力発電などに、地域社会としても、個人としても、また電力会社にあっても積極的に取り組む必要があろう。必ずしも国全体として必要な策を講じていないと思われるが、地域社会なりの工夫が求められよう。
 他方、地球温暖化に伴う諸変動への対応も重要である。厳しくなる風水害等への対応、長期的には潮位の変化に伴う海進への配慮等々、基盤施設の整備や居住の工夫が求められる。ただし、一方で建設事業に伴う温暖化ガス排出や財政的問題もあり、冷徹な配慮が必要であり、特に、生活の仕方、産業活動の在り方の転換が大切であろう。
 また、食糧の安全保障についても配慮が必要である。世界の食糧不足の中で膨大な食糧の輸入を何時までも続けれる訳ではない。この意味では、農地の保全・確保を厳しく展開していく必要があろう。
 なお、人口の減少は、地球温暖化への極めて効果的な対応であると考えられるがいかがであろうか。
基盤施設の整備
 人口の減少・高齢化、財政の困難等々の課題については、住み易い街づくりとともに効果的な基盤施設の整備を図っていく必要がある。特に、富山で人々は、これまで富山平野に分散して居住し、空間的にゆとりある生活を享受してきたが、結果として冗長な施設の整備、膨大な農地の転換をもたらしており、早急に方向転換が必要である。
 富山では、都市計画及び農業振興計画に基づく土地利用計画は、かなり柔軟に運用されてきていた。今後の人口減少、食料の確保等に鑑み、厳しい運用が求められよう。農振農用地区域の安易な転用許可や市街化調整区域の市街化区域化などは厳しく制限していかなければならない。また、経済活動全体に占める農業の比重から見て、農業土木関連予算がきわめて大きい。これまでかなり縮小してきたが再検討が必要ではなかろうか。
 都市にまとまって居住することについては、富山市がコンパクトシティの形成として事業を展開しているところである。これは、各種基盤施設整備の効率化からみて、人口減少に対応した都市づくりの基本であろう。今後は、人かいろいろな活動で集まる場を核とした居住区の整備に留意していく必要がある。また、住宅の再生利用の促進にも工夫が求められる。
 道路、下水道、ダム、砂防、港湾等々の各種基盤施設の整備については、景気浮揚・産業振興的発想から脱却するとともに、中央集権的財政制度の拘束についてもしっかりと費用便益に配慮し、節度ある事業展開を図っていく必要がある。
 他方で、中山間地の手仕舞いの発想があっていいのではなかろうか。
経済活動の意味の再考
 経済活動は、本来、我々の生活に必要な衣食住を確保するためのものであるが、多くの人が専ら所得を大きくすることと錯覚している。富山には地場で生まれ育った中堅企業が多いが、人の顔が見える経営を展開し続けてもらいたい。
 各人の地球温暖化ガスの排出許容量に鑑みると、もはやより多くの所得は意味がないし、消費を一層拡大することは正義に反することは間違いない。現在の生産技術からすれば、人々は極わずかの時間のみ働き、その成果を皆で分け合えば十分にやっていける。ただ人類は、これを実現する経済社会のシステムを未だ創り得ていない。しかし、このような課題を広く議論するとともに、各人がこのことを念頭に置いて行動していくことが重要であろう。


(3) 新たな時代の目標
 地球温暖化等に鑑みれば、もはや我々は物的消費の拡大を求めることはできない。超高齢社会に向かう中で、社会の資源(所得)配分を大きく切り替え、持てるものを分け合っていく仕組みの構築が必要である。このため、生活の原点に戻って、我々は何を求めたいのか考え直す必要がある。
 いろいろな議論はあろうが、皆で分け隔てなくワイワイと楽しく生活していくことを目指すことを考えられないであろうか。これは、哲学者I.イリイチが「コンビビアルな社会」(共愉社会)と呼んでいるものである。物的生産の総量が変わらなくても、仮に人口が減少するのであれば、分け合うことが首尾よくできれば楽しい生活も可能である。
 我々のこれまでの生き方を大きく変更し、新しい社会創造の先鞭を付けていきたい。


(4) 正しい行動
 上述のような転換には、極めて多くの困難な課題がある。これらは富山だけでは解決が困難で、国全体でさらには全人類で対応していく必要がある。しかし、こうした中で富山なりに取組んでいくことも当然必要だ。
 こうした課題を検討する際には、「正しい行動をとる」ということを前提にする必要がある。世の中には、正しく行動しない人も沢山おり、それを踏まえて駆け引きが必要ということもあろうが、このような政治的な議論になる前に、本当に何が必要なのか確認することが重要である。
 つまり、まずは各人の生き方が問われており、自分なりの認識に誠実に生きていくことが重要であろうと思われる。
 「正しい」には2つの意味がある。
 一つは、真実に沿った判断をしていくことである。自分に都合のいい判断を勝手にするのでなく、根拠のある判断が求めらる。
 他の一つは、正義にかなう判断をしていくことである。ただし正義は一意的なものではない。ちなみに人々の根元的道徳感情として、「義務などへの拘束(A)」と「個人の尊厳(B)」といった2つの軸があるという研究がある。そして、双方とも弱く取り入れないのが「功利主義(リバタリアンab)」、前者のみを強調するのが「徳(保守Ab)」、後者のみを強調するのが「義務論(リベラリストaB)」、双方を強調するのが「宗教的左派(AB)」ということになる。こうした正義の考え方について 各自なりに一貫した発想が求められる。
 何が正しいか誠実に考え行動するという前提がなければ、社会の在り方を議論していくことは困難であろう。現在の我が国で、一番困難に陥っているのは、この姿勢が欠けていることだとも思われる。政財界のリーダーの多くがこうした問題を抱えていることは間違いないだろう。
 なお、仏陀の当初の教えの八正道(正しく見、正しく考える、正しく話し、正しく行動するよう努めていくという実践の徳目)は、こうした正しさを求めているものであろう。

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(Oct.26,2019Rev.)