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本文は、内容が不十分であり、文章も気づいたことを書き散らしたものである。
取り敢えず掲載したが、今後、整理を続けていく。
人類学は、調査地に飛び込んで「生の全体」を明らかにしたマリノフスキ、「構造主義」のレヴィ=ストロース、「文化相対主義」のベネディクト等と大きな成果をあげ、社会に大きな影響を与えてきた。しかし、文明地域によく知られていない地域が減少、言い換えれば外部の喪失によって、行き詰まりを見せることとなったようである。
そこで、異星人が外部から人類を見るという設定で、人類全体について、その歴史、文化について検討してはどうであろうか。
既存の学問の枠組みレビューにとどまらず、単なる制度の描写でなく、ヒトの暮らしから描くことを試みたい。
近年、ハラリ『サピエンス全史』など生命の発生、さらには宇宙の誕生から描いた著作が沢山出ている。
本文は、こうした著作を参考にしつつ、繁栄の時代から滅亡の可能性そして再生の見通しについて、私なりの考えを整理する。ただし、人類全体について考察するつもりだが、日本人固有の内容も混ざっているかもしれない。
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@地球の誕生
凡そ46億年前に、天の川銀河のオリオン腕で、銀河中心から25千光年程度離れた位置に、太陽系が形成され、その第3惑星として地球が誕生した。
その後38億年前に生命が誕生し、原核細胞生物から、真核細胞生物へと進化した。そして多細胞化、両性分化があり、寿命を持つようになり、進化のメカニズムを確かなものにした。
エディアカラ期、カンブリアの大爆発を経て、脊椎動物として、魚類、両生類、哺乳類と進化し、700万年前にはアフリカで、霊長類の人類となった。その後、200万年前にホモ属に、20万年前にホモサピエンスへと進化した。
人としてのホモサピエンスは、アフリカを出、特に環境の厳しい地域を除いて、地球上全体に散らばっていた。この分散をグレート・ジャーニーと呼んでいる。
人々は、それぞれの限られた地域で狩猟採取により暮らし、時間的にはそれなりにゆとりがあったようである。
個々人の人生は、DNAを次世代へとバトンタッチするとともに、時代の文化に多少の痕跡を残していく。
進化の経過から、個々人は生き続けようとする強い指向を持ち、生命維持と快楽の追求を本能として持っている。これだけでは、唯物論的死生観となる。
基本的本能以外の欲求は、生まれてからの生活文化の中で身に付ける。各人は、これらの欲求を基礎としてそれぞれの生を送っている。社会生活を送るために多様な規範を持ち他者とつながり、多様で豊かな創造を展開していく。ただし、個人の生き方に先駆的な使命がある訳でないし、絶対に禁じられることなどもない。
ここで生に拘泥すると死に恐れを抱くようになる。このため、事実を事実として受け止め、渇望せず(あるいは抑制し)生きていく、涅槃に向かうこととなる。
このような人の生では、個々人がその生き方を考える場合、まず、それぞれが何をやりたいか宣言する必要がありそうだ。ただし、これは、それまで生きてきた文化の中で育まれたものに間違いない。
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@ヒトの繁栄は脳の進化
地球上で、ヒトが他の多くの生物を抑えてここまで繁栄しているのは、その脳の働きによる。
個々人の脳は、遺伝的要素を受けて生まれ、文化環境の中で育ち、様々な機能を形成する。ホモサピエンスの誕生は、その生活により、脳が相乗的に進化・膨張してきた結果である。
ただし、脳は、直面した状況について、それまでに蓄積した記憶を使って、取り敢えず生き抜くために都合のいい判断をする。必ずしも正しい判断をしようとはしていない。脳のその都度の判断は、論理的に適確で、倫理に沿うという保証は全くない。
これを脳の判断の「不合理性」として捉えて、明確に自覚しておく必要があろう。脳科学では「確証バイアス」と呼ばれているが、ここでは、「不完全性、不確定性、不可能性」と並ぶ言葉として「不合理性」と呼んでみたい。
さらに、人それぞれの脳の機能は多様であり、各自が独自の特徴を持っている。このため、それぞれの生き様を認め、支えあって生きていかざるを得ない。マイノリティという言葉もあるが、多様性の存在として捉える方がいいだろう。
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次にこうした脳が生み出した知恵について見ておく。哲学が追求してきた3大価値として、真善美が挙げられる。ただし、これらが対等に並べられるようになったのは、西欧で19世紀になってかららしい。それ以前は明確に分離されていなかったようである。
人がその生き方を考える場合、少なくとも建前としては、科学的な唯一の真理に従い、各人が普遍的と考える倫理に沿い、五感が捉える快さを追求することとなろう。
@科学 真
真実をもたらす科学の追求は人類の性であろう。近年、西欧で特に進展したのは、無知の自覚があったということらしい。
@多様な疑問の解明
相対性理論・量子力学・超ひも理論など宇宙の成り立ち、生物の進化について理解を深めている。この結果、人類自己自身の存在についての認識を改めている。
A技術の展開
知識の蓄積は、多様な技術を生み、人類の活動の可能性を広めている。
・火の利用 食糧の範囲を広げ、脳の進化をも促したようだ。
・農耕・放牧 一層多くの食糧の確保を実現した。
・動力の活用 産業革命の重要な契機となった。
・情報システム 新たな社会の構築を促している。
善き行いをもたらす道徳とは、円滑なコミュニケーションを追求するための工夫(規範)である。
@仲良く生きる工夫
各人は、誕生してからの生活の中で他者と仲良く生きる工夫として、望ましいとされる生活規範を身に付ける。一般には、これが道徳と呼ばれ、この内容を列挙するのがアリストテレス流の徳であり、コミュニタリアンもこれに沿っている。
ジョナサン・ハイトのモラルファンデーション理論では、根幹となる道徳感情として、「A.個人の尊厳」(@傷つけないこと、A公平性)、「B.義務などへの拘束」(B内集団への忠誠、権威への敬意、D神聖さ・純粋さ)があり、各人のこれらの強弱は、脳の形態とも関連しているそうだ。そしてこの強弱の組み合わせで、リバタリアン、保守、リベラリスト、宗教的左派に分類される。
A宗教
理解できないもの・不安への対応として神を核とする虚構を創った。また、これにより積極的に秩序の形成を図ってきた。
虚構であるとして宗教を否定する考えがある。しかし、信仰の否定は、個人の生を否定するものであり、安直にはできない。社会的否定は社会に明らかな弊害をもたらす時に限られよう。
ちなみに、ゴーダマシッタルダによる当初の仏教では、虚構を立てていない。
B正義論
信仰のない人にとっては、それに代わる規範の検討が必要だ。例えばカントの考えを受けた、ロールズの正義論がこれに当たる。負荷なき自我が無知のヴェールの後で判断する内容を正義としている。
ロールズとコミュニタリアンの正義論に関する論争は、近年話題になったところである。
ただし、多くの人は、このような正義を追求しているわけではない。このため、宗教的背景の乏しい国(日本)では、モラルを欠きルールに抵触する企業行動が頻発している。
美をもたらす芸術とは、五感に感じる快楽の追求である。
@音楽
有史以前の話題として、笛が挙げられるが、物を敲き、弦を弾くことは極く自然に行われたであろう。
音楽は、心に響き、宗教、軍隊、儀式など多様な場で活用され、気分を高揚させる。
各人が生まれ育った文化の中での音楽、あるいは多様な機会に心に触れた音楽を楽しんでいる。
A美術
有史以前の洞窟の絵などが残っており、人類にとって多様な意味を持ってきた。
眼は、最も発達した器官であり、美術は、具象表現にしろ抽象表現にしろ多様な心理の表現発信手段となっている。
道具・構造物にも表現され楽しまれている。
歴史的経緯から、音楽・美術については、近代西欧の視点がグローバルに広がっている。近代以前の西欧では、これらの活動は、神等を模倣するもので、パトロンの下の職人が実践していた。このため芸術という概念はなく、それまでは、音楽・美術を真を追求する学として捉えられていたらしい。
B食
生活の中で美味しいものを自然に求めた。というよりおいしいと感じるものは人類にとって必要な食料である。スウィートに関心が持たれ、かつ過剰に摂取されがちなのは、かつて不足した栄養素で渇望し続けていたためであろう。
自らを含めてもてなしの重要な手段となっている。そして、各地に多様な料理が発展している。
C香道・アロマセラピー
鼻は人類にとって退化した感覚器官であり、知恵の展開は乏しい。
しかし、安らぎをもたらすものとして、香道・アロマセラピー等がある。
Dスポーツ
体の機能を誇示するのは異性確保の大切な手段であり、スポーツはここから始まったのだろう。
オリンピックはその発生の経緯もあり、西欧で行われていたスポーツを主体として始まった。
所属集団の選手の応援が自然になされ、集団への忠誠の契機ともなっている。
E物語
脳は、各感覚から入手し蓄積された情報を統合し、多様な物語、総合的芸術を創出する。
ちなみに近代以前の西欧では、修辞学として扱われていたものに対応している。
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次に、人類はどのような社会システムを築いているか。これは、次章の歴史的経緯とも大いにかかわるが、多少近年の変動を含めて検討する。
@経済市場 (生活の糧を得るためのシステム)
@市場経済
グローバルな交易等を契機として、資本主義経済が展開してきた。経済活動は、市場によって需給の調整が自ずと図られ、望ましい方向に進むとされている。しかし、産業革命の中で厳しい労働環境等が現われ、また、景気の急激な変動の中での混乱等もあり、様々な政策的調整がなされてきた。
高度成長期の中では、中間層が膨らみ、それなりに多くの人々に豊かさをもたらした。
その後の経済の停滞に直面し、経済の一層のグローバル化の中で、多様な規制を緩和し、経済活動を一層自由に展開させるべきという、新自由主義の政策が展開された。この結果として、人々の所得の格差が極端なものとなり、分断が深刻なものとなっている。
A計画経済
19世紀の資本主義経済社会の混乱の中で、経済活動を計画的に展開すべきとの主張が現われ、20世紀にはそれを実践する国家が誕生した。しかし、需要にあった供給計画の策定・実践は、困難であり、結果として失敗した。
その後、社会主義市場経済を標榜する体制も現れているが、恣意的な規制変更など不透明な面がある。
@民主主義
多くの国家は民主主義国家を標榜する。
そして選挙により代表者を決め政治を展開している。
しかし、選挙民の無気力と欲望により、また政治家の選挙民への迎合により、ポピュリズムに陥りがちである。そして持続可能な政策が展開できないでいる。
ちなみに、直接民主主義は、ごく小規模な団体でないと困難である。
各国の政策の在り方としては、例えば次のように整理できよう。
・保守主義 伝統的な家族観や自然観に基本的価値
・自由主義 個人の自由に基本的価値
・社会民主主義 社会的公正や平等に価値
A専制
帝国下の政治は、王侯・貴族の支配の専制政治であった。
今日でも、自由な選挙の代表者による政治の展開が困難で、民主主義を標榜しながらも、専制政治となっている国民国家も多い。また、警察力(軍事力)によって支配する政治も多く、民政移管を主張するがなかなか実現ない。
このような専制政治は、権力の独占継続から腐敗の発生が懸念され、また権力の継承過程での争いも多い。
かつてコミュニティの活動は個人を拘束するものとして否定的に捉えられていた。しかし、従来、家族・地域社会が担っていた機能が、市場・政府に委ねられるようになり、かえって自らの発想による主体的生活を失っていった。こうした中で、互いに支え合う場、自らを取り戻すために主体的に議論する場として、地域社会での自発的繋がる場の必要性が再認識されている。この経緯は、リベラリストとコミュニタリアンの論争でもあった。
また、地域社会での多様な繋がりの蓄積をソーシャルキャピタルとして、その機能の重要性も主張されている。
ちなみにこのような繋がりの場は、コミュニティに対峙する言葉としてアソシェーションが用いられていたが、今日では、コミュニティという言葉が広く用いられている。
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では、このような知恵、社会システムを持っている人類は、どの様な経緯で社会を形成して来たのか。集団の拡大史から人類史を概観する。
@親族集団 狩猟採取時代
狩猟採取時代は、たかだか百数十人の家族、親族の集団であっただろう。この集団で、食糧を確保し、子育て等を果たしてきた。
集団は比較的独立しており、ある程度時間的余裕のある生活をしていたとも思われる。
隣の集団との争いは、時にはあったかもしれない。また、黒曜石のような貴重な素材の遠隔地からの入手も見られたようだ。
耕作等の農業革命では、ある程度の人を集めた共同作業が必要で、拡大した親族(氏族)集団が見られるようになる。そして集団の統率のために、長を抱えるようになった。
また、収穫の蓄積があるため、氏族間の略奪が起きるようになり、一層大きな部族集団が形成されるようにもなる。ここで支配者が登場するとともに、多くの人が隷属する位置にある階層社会が生まれ始める。支配者は、その位置を誇示するため、また死後を恐れ、巨大な墳墓を構築してきた。
耕作等により一定の食糧が確保できるようになり、人口の増加がもたらされるが、これによってかえって生活が厳しくなり、食糧増産のため、働く時間が増加していく。
他方、収穫の管理のため、数、数字が発明される。
次いで、部族の群雄割拠からその統合が進められ、概ね共通文化の集団として民族国家の形成へと進んだ。
国家の秩序維持のため、文字が発明され、法律の制定なども始まった。
民族国家は一層の勢力拡大を指向し、文化の異なる異民族とも争い、次第に広範な地域を支配するようになっていく。
支配を円滑に進めるために宗教が利用されるようになり、長い年月を掛けて民族の融合が進んでいく。
ただし、地勢的条件等により、それなりの民族国家であり続けている地域も多い。
その後、第2千年紀後半には、西欧を震源とした新時代の展開が起こった。
A.ルネサンスの時代
@西欧における知の再生
人類の多様な発見・発明は世界各地で行われ、それがイスラム地域等で伝承されていた。西欧では、キリスト教の支配の下で必ずしも伝承されていなかったが、十字軍等を契機に、多様な知識の再発見がなされた。
A植民地の拡大 地球規模の展開
こうした中で、イスラムの伝承のあったイベリア半島の国々で航海術が発展した。海洋進出が行われ、遠隔地の植民地化が展開され、グローバルな帝国の形成が広まっていった。
B宗教改革と権力の移行
商人が力を持つこととなり、他方、免罪符など堕落した宗教の改革も始まり、権力は、次第に王侯・貴族、教会から商人等へ移行していく。
B国家の定義
他方、民族間の争いの中で、一定の領土を持ち、その中の国民を治めていく、不可侵を建前とする国家の概念も確認されるようになっていく。
B.産業革命の時代
C産業革命
グローバル帝国の下で、多様な物資の交換がなされる中で、動力やその他多様な技術の発明があり、繊維等の工場生産始まり、生産物が多様化し、大規模化が進んだ。
この産業革命は、次第に世界全体へと広がっていった。
D世界大戦
産業革命の中で、国力を増強した国家は、互いに厳しく争うようになり、2度の大戦に至った。
@脱植民地から国民国家を原則とする時代
大戦の後には、世界の殆どが加入する国際連合が発足し、多様な課題が、世界全体で議論できるようになった。
また、脱植民地化政策が進められ、国民国家化の形成が進んだ。
ただし、新たな国民国家は、確固たる背景のある民族を単位として境界を設定できたわけでなく、多くの争いが続いている。また、一定の国民国家となっても、自ら治めることができない国家も多く、内戦状態にある国も多い。
国民国家の多くは、建前として民主主義を標榜しているが、これは、西欧の価値観を基礎とする世界帝国の時代とも言える。
世界全体としては、比較的長期の平和が続いているとも見られるが、なお、武力による領域拡大を指向する国が多い。このため、自己防衛の建前で、多くの国が、軍備を強化し続けている。
世界平和のためには、普段からの信頼関係を築く努力が求められるが、容易ではない。
A国民国家の下での福祉国家構築
国民国家では、その国民の幸せな生活を目指して、福祉国家の建設が進められている。
生活の基礎となる所得の確保については、経済システムの中で雇用機会の増加が目指される。
世界大戦後の経済成長の中で、中間層の拡大が図られ、それなりの成果を納めた国も多い。
しかし、経済活動の一層のグローバル化が進む近年は、雇用機会の配分とともに、その雇用形態、労働内容と賃金の適正化が困難になり、国内で所得階層の厳しい分断が起こっている国が多い。
低所得層には、生活保護の支給があるが、必ずしも円滑になされている訳ではない。このため、国民に一様の所得を配分するベーシックインカムの検討も見られる。
次世代を担う人を育てる教育も機会均等に準備されることが大切とされている。
基本的には、各自が望む生を実現できるよう支援する必要があろう。
また、正しく生きようとする人が育つよう、環境を整備することも大事である。
生を支えることには、生命をどう捉えるかが基本となっている。
通常は、他者の殺害を認めない。しかし、中絶の可否については、難しい課題となっている。人を区別して誕生の可否を決めること(優生思想)は、一般に否定されている。
逆に、安楽死については、身体的苦痛の中で自らが望めばを認める方向となっている。高額医療の公的保険は制度的に断念も在り得よう。それが死に繋がってもやむを得ないだろう。いずれにしろ、その在り方は模索中である。
介護を始めとし、人を支える多様な仕事には、可能な限りの資金を回したいという建前になっているようだが、実態は削減されることも多いようだ。
B情報化
他方、第2千年紀末から、電子情報機器の利用が、社会に大変革をもたらし始めている。
1990年代半ばには、インターネットが普及し始めた。通信による新たな受発信、繋がりの可能性がでてきたが、虚偽情報等が問題となっている。
2010年代には、スマートホーンが普及し、多様な機能が集約して搭載され、利便性が飛躍している。ただし、利用料金や利用時間、さらには対応困難者の問題が起きている。
2020年代に入って、生成AIによる新たな創造の可能性が見えてきている。今後、人々の活動に大きな影響を与えることは間違いない。また著作権の処理等が難題となっている。
国民国家は、選挙で選ばれた代表による方向設定のもと、官僚の働きによって運営される。しかし、その規模が大きく、硬直化の課題がいろいろと現れている。このため、国民国家の中の自治政府が、自律して事業を展開しようとする動きが現われ始めている。こうした地域は、国家全体の方針を恐れず自らに相応しい在り方を探っているという意味で、フェアレスシティと呼ばれている。
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@領土の確保
領土は国家の基本である。
国民国家間の境界については、海洋を中心として争いが絶えない。特に、軍事的優勢を背景に、身勝手な領域を主張する国も見られる。
人は、地球上の生態系の変化をもたらしてきており、まさしく過剰繁殖した外来種である。
かつて、人が地球上に散らばる過程では、多くの大型動物の絶滅をもたらしてきた。
農耕の開始では、土壌の塩化、そして砂漠化などを起こさせた。
また、近年では、プランテーションの拡大で、多くの森林を伐採し続けている。
@都市の形成
支配者とその統治組織、あるいは農耕から離れた多様な専門職が登場したことで、人は集まって住み都市を形成し始めた。また、交易の拡大により、都市は次第に拡大していった。近年は、産業革命の中で、農地を追われ都市に移り住む者も多かった。
都市は、コミュニティの縛りが弱く自由な面があるが、かえって孤独をもたらしている。これは高層住宅などの好ましくない面となっている。
また、都市は、感染症の広がりなど、多様な脆弱性を持っている。機能的な反面、自然の喪失も起こしている。
A郊外化
都市への一層の人口の集中は、郊外での住宅団地形成を促した。
また、自動車の普及の中で、郊外大型店の展開が進んでいる。
これらは、しばしば無秩序な土地利用の展開につながった。
Bコンパクトシティ
こうした変化に対して、一方で、人口の高齢化や地球温暖化ガス排出削減などから、自動車利用が不都合となり、コンパクトにまとまった居住が、求められるようになっている。
C集落崩壊
他方、人口の転出が進んだ地域では、次第に集落の崩壊が起こっている。
生活の安全性・利便性、産業の活性化を求めて、治山・治水事業、鉄道、港湾、上下水道など多様な基盤施設を整備してきた。
土木建設事業の展開は、景気浮揚の役割も持ち、際限のない事業となっている。
今後、人口の減少、経済の低迷の中で、過剰な施設となり、維持補修も困難となり崩壊していく可能性が大きい。
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@基礎的生理時間
睡眠は、昼間の活動の成果を脳に固定蓄積する大切な活動である。しかし、近年この時間は減少しがちのようである。
一層多くの所得を求めて、厳しい労働環境の中で、労働時間は、生活時間のかなり多くを占めるようになっている。
知的活動によって何かを創造し残していくことは、人にとってそれなりに快感を覚える時間である。
人それぞれの推し活も盛んとなっているが、主体的な創造性に乏しい懸念がある。
法で参加が求められない活動は、各自の自由参加とされるが、皆が自由な社会参加を放棄していては、社会が成り立たない。
町内会活動への参加の必要性の議論を見かけるが、その参加の在り方はともかく、自らなりの責任を果たす必要があろう。
他方、多様な行動について、皆がやっているから、上司等からの指示があったからと弁明するとしても、それは、自らが認めた行動である。
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@過剰繁殖
人は、農業革命、産業革命を通じて、その生活に余裕がでると、人口を一層増やし、結果として一層の生産拡大を続けてきた。生物としての宿命であろう。
そして限られた地球上で過剰繁殖し、他の生物を支配し、多くの種の絶滅をもたらしてきた。
さらには、自らの絶滅に近づいている。
過剰繁殖は明らかなのだが、欲望を拡大し続け、より多くの所得を求めて一層の経済活動の拡大を望み続けている。いわば拝金教の信者となってしまっている。
この結果、膨大な地球温暖化ガスの排出を続け、気候の変動をもたらし、厳しい災害に見舞われ始めている。
仮に、地球温暖化ガスの一人当たり排出許容量という発想を持つと、ロールズの正義論では、人類一人ひとりが平等の排出量ということが議論の出発点となろう。このため、個々人にとって、物の消費には上限ができ、一定以上の所得は意味を持たないことになる。
地球温暖化への対処の検討は、ここを出発点とすることを共通認識とする必要がある。
今後、地球温暖化が一層進み、激しい気象変動が起き、多様な自然災害が増えることは間違いない。海水面が上昇し、人の居住地のかなりの部分が消滅する可能性も高い。
結果として、世界の食糧が不足し、飢餓がもたらされよう。これは、所得水準の低い地域から厳しくなるが、その貿易が滞り、自給できない国にとってもよそ事ではなくなる。
そして、国際間の厳しい争いも避けられない。
混乱の結果として、自発的か、受動的かはともかく、人口の減少、経済活動の縮小は避けられない。
@不合理性の克服
地球温暖化から多様な混乱がもたらされる状況を直視し、多少ともその厳しさが柔らかくなるよう努力する他はない。
安直で不合理な発想は克服しなければならない。
活動の鎮静化をどう図るか。
拝金教に捉えられた、景気優先の発想からは離脱しなければならない。
また、温暖化ガスを排出する活動を極力抑制していく必要がある。自動車の利用の抑制も大事で、この宣伝なども中止すべきではなかろうか。また飛行機の利用を促す観光の振興なども誤った施策であろう。こうした言説は、関連する業界で働く人にとっては驚愕するものであろうが、事態を直視する必要がある。
そして、人口についても、積極的に縮小を図る必要があろう。
仏教の教えを自己流に改変・整理すると、事実を事実として受け止め、渇望せず(あるいは抑制し)、可能な3つの知恵磨きを楽しめばいい。
取り敢えずは、地域コミュニティで互いに支え合い、それなりに楽しく生きていくことを目指さざるを得ないのではなかろうか。
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(Oct.24,2023Rev./Oct.16,2023Orig.)
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