団塊の世代の忸怩たる思い ―私的経験を振り返る―
団塊の世代は、必要な社会の方向転換を主体的に進めてこなかった。そして、崩壊しつつある社会を後世に残して他界することになりそうである。全く恥ずかしい世代と思われるが如何であろうか。
以下は、社会の在り方等を自分なりに考えて発信してきたことなど、私的経験を忸怩たる思いで振り返ったものである。
@高度経済成長の末期
団塊の世代の先陣を切って1970年に大学を卒業した。大学では計画の科学を学んでおり、国の諸計画の策定を担いたいと考え経済企画庁へ入り込んだ。
時代的には、高度成長の末期、ただし末期という認識は事後的なものである。
この時期に、ローマクラブの報告「成長の限界」があったが、マルサスの再来と思い、私自身は、経済成長を放棄するようなことは、考えられないとしていた。
Aオイルショックでの基調転換
1973年には、石油ショックがあり、経済成長の基調が変化した。
また、この時期から、合計特殊出生率の低下が始まっている。厚生省の中にあった人口問題研究所は、合計特殊出生率の低下は一時的なもので、元に戻ると主張していた。しかし、国際的な人口学の中では、日本のそれまでの合計特殊出生率の安定が不思議な現象とされていた。つまり、厚生省の予測は故意に歪められたものと見られ、マスコミでの若干の報道もあったがさほど顧みられなかった。私自身は、合計特殊出生率の低下、ひいては人口の減少は不可避と考え、年金等の諸制度の改革が必要と発言していた。実は、私は、この時期に、たまたま厚生省へ出向し、福祉行政や薬務行政を担当していた。
他方、我が国の基盤施設の整備は、1970年代には概成しており、国が経済開発や基盤整備の旗を振る時代は、終わりに近づいていると感じていた。ちなみに、1974年に国土庁が設置されており、国土の整備は、経済企画庁の所掌でなくなっている。
B地方の時代
こうした中で、社会づくりの計画に携わりたいと考え、1979年に富山県に転職した。
そして、翌年、当時の県知事が亡くなり、新しい知事の下で、県民総合計画の策定を担うこととなった。
計画の基本として、人口の将来推計が求められた。1980年の国勢調査を出発点として、30年後の人口を予測し、結果として千人単位で的中していた。ただし、多様な誤差の相殺があり自慢できるものではない。重要なことは、人口の減少期に入ることを明確に示していたことである。このため、県民総合計画にこれを明確に組み入れる必要があった。例えば、地域の基盤施設の整備では、多々益々弁ずと、国からの補助金を受入れるのでなく、既存の整備計画も再考、縮小していく必要があった。これについては、新知事も一旦は再考を同意されたが、国からの補助金の遠慮・返上などは選挙で選ばれる知事にはできず、結果として、24年間の在職中には、方針転換はなされなかった。
他方、我が国全体の経済については、石油ショック後の対応が諸外国に比べてうまくいったこともあり、ジャパンアズナンバーワンとされた。当時は、技術主導経済への転換が重視され、テクノポリス政策が展開されている。私も県のテクノポリス計画の策定に携わり、若干なりとも寄与できたと思っている。計画の決定は1984年だったが、計画策定の途中で、通産省以外の省の参加もあり、土地利用計画などの詳細な記述も強いられた。ここでは、高岡市の不確かな都市計画の中で、市街地南部の開発を助長する内容なども入ってしまった。
こうした好調な日本経済の中で、アメリカの注文を受け入れたプラザ合意があった。これにより輸出主導の経済から国内需要主導の経済が指向され、結果としてバブル経済へと進んだ。
C地球温暖化の確認
1980年代末のアメリカでの旱魃の原因究明の中で、地球温暖化の進行が確認された。そして1992年には、リオデジャネイロに世界各国の首脳陣が集まり、環境会議が開催された。しかし、我が国は、国会の都合で、時の宮沢首相は出席していない。以後も温暖化ガス削減には、極めて消極的な姿勢を続けてきている。後に京都議定書の策定などもあったが、自らの実践は、極めて怪しい。
話題は、変わるが、当時、若い生産年齢人口の減少による労働力不足から、現在に続く外国人技術研修制度が始まっている。通産省はこの制度の展開のため、県を通じて地域の経済団体への支援制度を設定している。たまたま担当課長の役におり、制度の危うさが見られ、補助金の導入を否定すべきと一旦は考えた。しかし、国が制度を作り、地域の団体が求める支援制度を拒否することは、中央集権体制の中でできるものではなかった。結果として、我が国の大きな懸案となってしまっている。
Dバブル経済の崩壊と長期低迷
1990年代に入り、バブル経済は崩壊し、景気低迷期へと突入した。様々な、景気浮揚政策が打ち出され、基盤施設整備の再考の放置、財政規律などの混乱が現在に続いている。
1990年代半ばには、我が国でもインターネットが普及し始めた。私自身は、ホームページの書式htmlで、それまで蓄積していた県づくりのための統計的情報を網羅的に整理した。そしてウェブ上に掲載したのが1996年であり、以来発信を続け、四半世紀以上経過している。
県での職務は日本海学の担当など、行政への直接的な担当は少なく、勝手気ままに、富山県・日本・環日本海諸国の情勢を分析し、私的な発信を続けていた。
E地球温暖化の進展
2007年には、県を退職し、富山国際大学へと転職した。大学では授業のための各般の社会科学等の再学習・新規学習が必要であった。この中で正義論等も学び直している。実は、経済企画庁の業務の中で、ロールズの正義論に触れたこともあったが、正直言って歯が立たなかった。
こうした社会科学等の知識を加味して、地球温暖化等の課題の検討を深めた。特に、地球温暖化ガスの人類一人当たりの排出許容量という観点に立つと、我々は大変な罪を犯していることが自覚される。そして、飛行機・自動車利用の自粛の必要性は明確だが、こうした発想はなかなか流布しない。また、縮小すべき産業も多岐に渡るが、拝金教の信者で満ちている社会では、想像もできないようだ。
2012年には、年金受給者となったが、持続的システムでなく気が引ける。国民年金は別として、その他の年金支給額は、削減していくべきだが、年金前提の生活設計がなされており、削減によって即座に困難に陥る人が大勢いる。年金政策の転換をしてこなかった団塊の世代が、年金を受給しながら、後世に付けを残している訳だ。
E崩壊不可避の認識
2013年には、大学も退職し、ウェブでの発信を続けている。
2015年にはSDGsの設定があり、2020年頃には、盛んに紹介されるようになっているが、どうも真摯に対応しているようには思われない。
2020年代に入って、引き続く異常気象の中で、もはや現在の経済社会の崩壊は不可避との認識至っている。日本でも自然災害の一層の増加、食糧不足など一層厳しい状況に陥っていくであろう。そして国際的な争いも避け難い事態となっているのではなかろうか。
今後は、地球温暖化ガスの排出のゼロ化とともに、ソフトランディングのための様々な工夫を実践していく必要がある。経済活動の鎮静化、人口の削減はもとより、戦争の準備でなく国際平和への仕掛け作りなどが求められている。
以上、団塊の世代の一員として、経過した各時代の中で課題を認識し、ある程度の発言はしてきたが、社会の方向転換に殆ど貢献しなかったのではなかろうか。そして、自らに厳しい災害が降りかかるのと、自らの最期とどちらが先かという状況に至っている。
全く、忸怩たる思いである。
Oct.06,2023
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