リベラルを補う以下の論述は、先賢の理解等にかなり不確かなものが混ざっている。 リベラルの発想は、M.ルターが、聖書に基づき自らの発想でカミを考えることから始まったとされるようだ。J.ルソーは人間は本来善良で自己改善能力を持つとした。さらにI.カントが純粋理性批判でリベラルを明確にし、これを基盤にJ.ロールズは正義論を著した。西欧の近代社会はこのリベラリズムを軸として社会が統合されてきたが、近年はどうも不評のようである。F.フクヤマ『リベラリズムへの不満』新潮社2023年は、この不評ぶりについて、濡れ衣として不満を並べたものとなっている。 社会はエリート層が創り上げた構造を暗に持っているという指摘は、言語学のソシュールから、デリダ、フーコの構造主義が指摘するところである。リベラルが平等と言いながらもエリート層の仕組んだものとなっているという指摘は、マクルーハンに始まったようだ。 J.ロールズの正義論に対する批判は、コミュニタリアンと称される人々によってなされてきた。J.ロールズの正義論には公共を考えることが抜けている。また、無知のヴェールは人それぞれの持つアイデンティティを受け付けていない。 H.アーレントは、自由について、人々の発想は多様で複数性を認めなければ、全体主義を避けられないとしている。しかし、人間の条件として、人と触れ合う活動を求めている。自由を主張するとしても、社会との関わり方を検討しないと、一貫性のある思考は形成されないということである。 ところで、リベラルの正当性については、自由と平等とともに、経済成長をもたらすことが重要な要素となっている。しかし、この経済成長は今日の地球上では、限界を超えていることは明らかである。半世紀前のローマクラブの「成長の限界」やイリイチの「コンビィビィアリティのための道具」などを引用するまでもないであろう。山田仁史は『精神史』で人々はカミに代えてカネに囚われいることを指摘している。いずれにしろ、例え経済成長を放棄しても、早晩人新世の社会の崩壊が避けられないことが明白になっているのではなかろうか。 この課題について、リベラリストは、社会の崩壊ができるだけ遅れるよう、そして緩やかに進むよう発想し、その上で自分なりの自由を主張せざるを得ない。これには世界・地球全体を考える視点が必要である。 A.アインシュタインは、家族、同郷、国家等の出自からのアイデンティティは、人々の発想の監獄となっていると指摘している。このため、思いやりの和を広げ、全ての生物さらには自然の全てについて、そのありのままの美しさを受け入れていく必要があるとしている。 しかし世界国家など存在しない今日、アイデンティティの監獄を抜け出て、世界の在り方を考え、その上で、自分なりのリベラルの発想は可能であろうか。 May.19,2023 表紙に戻る |