グローバルに正義を考える世界史は多様な争いの歴史である。TVドラマなどを見ながら、歴史上の争いの当事者に身を置いて考えると、 何が普遍的な正義かなどと考えることなど決してなく、如何にして勝てるかを考えている。世界史を眺めると、グローバルに正義を考えることが始まって1世紀も経っていないようだ。これを個人的に考える人はいても、国としてこのような立場で考えることは決してない。 これが変化してきたのは、西欧で並立する国が相争い、各種の条約を制定するとともに、国自体が市民社会(ネイションステート)と変質する中で、発言の自己矛盾が顕在化してきたためであろう。例えば、イギリスが国内でそれなりの民主主義的施策を展開する中で、奴隷貿易やインド等の植民地経営で稼ぐことは、人種差別的態度で自己矛盾がかなり顕わになる。 世界大戦を経て、世界平和のための国際条約などを検討する中で矛盾が見えてきた。そして国際連盟さらには第二次世界大戦後の国際連合の樹立の中で、グローバルな観点からの多様な正義が、普遍的価値として確認されてきた。 ただし、当時、権威主義的自国主体の国家は、未だ勢力がなく、こうした流れの中で声を大きくできなかった。このため本心はともかく、建前として自らも民主主義や国際正義を述べてきている。さらに、ほとんどの国でも、普段の発言はともかく、争いの当事者になればきっと自らの正しさを主張するのみとなろう。過去の歴史的事実にについてもとかく隠ぺいしようと行動しがちである。 各種の争いで自らの国を超えて何が正義かを考えることは、かなり難しい。スポーツの国際試合などで自らの国を応援することは当たり前かもしれない。しかし、正義を自国本位で考えることと紙一重である。 いずれにしろ、今、我々は、大きな戦争を避けることができた稀有な時代にいる。人類が階梯を半歩昇ったと思える。しかし後戻りの恐れも大きい。ここで、後戻りしないよう努力しなければならないが、極めて危うい。 Mar.22,2023 表紙に戻る |