日本人無宗教説「藤原聖子編著『日本人無宗教説』筑摩選書2023年」を読んだ。明治以降の日本の無宗教に関連する議論の歴史について、マスコミに現れたものを整理したものである。 社会に不安がある時代には、日本には宗教がないという欠落論が出て、社会が好調な時代には、日本にはそれなりの宗教があるという充足論が広がっている。また社会を鼓舞したい時代には大和魂などが広がっている。結局は、時代の都合により宗教の欠落論と充足論が交差したものであったと言えよう。 宗教の在り方そのものを語ろうとしてはいないが、マスコミ情報を辿ることを主眼とした本書の主旨からやむを得ないのであろう。ただ、小林秀雄の「宗教とは教理でなく、祭儀という行動であった。」という指摘は、日本の宗教の理解の鍵になりそうだ。 本書では、正面から触れられていないが、宗教はなぜ必要かと考えると、人々が多様な恐怖に対応するため、またそれぞれの生き方の指針を得るためということであろうか。それぞれの時代の統治者がこれを都合よく利用してきたことも事実である。 これに対して、恐怖への対応は、アニミズムや迷信と言われるものがあり、それなりに対応してきている。 生き方の指針は、日本社会の人の構成が比較的一様で、地域社会での生活習慣がこの役割を相当程度果たしてきており、ことさら理屈を並べた宗教が必要とされなかったということであろう。ただ、今日、人々がそれなりの道徳観を形成し、自律した生活が営まれ、しかるべき社会が形成されているかには、懸念がある。 他方、科学の進歩の中で、宇宙の成り立ち、生物の進化がかなり理解されるようになってきた。ドーキンスの言うように、超越者を持ち出す必要がなくなっているともいえるが、これをどう捉えるのか。 科学の進展を横目で見つつも、我々の存在を超越したものがやはり必要とする者も当然いる。 しかし、超越者を否定する者は、生き方の指針をどうやって得るのか。各人それぞれが、それまで生きてきた環境の中で、それなりの道徳観を形成しており、それで事足りるという者もいるであろう。 また、現代社会の中で道徳的とされる規範をあげつらい各自なりに整理して考えようとする者もいよう。これはアリストテレス流の方法であろう。 ただし、社会が急激に変化する中で、これまでの道徳律では不都合が多くなっている場合には、各自が根源から考え直す必要がでてくる。この場合、それぞれなりの正義論を持ち出す必要があろう。そしてカントやロールズを持ち出すことになるのであろう。 しかし、自分なりに深く考えるというのは困難な作業であり、他者の発想に頼ること、あるいは超越者を否定しつつも宗教の教理に頼ることもやはり否定できない。ただ、他者の発想に頼ることは、今日の情報社会の中で、限られた範囲の情報のみに溺れ、フェイクを信じがちとなる危うさが指摘されている。 かつて道徳の在り方を探った白熱教室の議論などもあったが、今日の日本では、あまり真面目に生き方を求めていないのではなかろうか。そして、景気の回復、有り体に言えば、より多くの「カネ」のみを求めており、極めて危うい状況に陥っている。 Jun.22.04,2023 表紙に戻る |