私の発想の基礎

1.私とは何か
2.意識の発生
3.何をしたいか
4.行動の選択
5.規範の取得
6.実践
7.私的実践

 以下は、私がいろいろと物事を考える基礎的枠組みである。
 かなり粗雑で分かり難いと思うが、ここで整理しておく。

1.私とは何か
 まず私とは何かを確認しておく。
 最近の科学により、宇宙148億年の歴史の中で、天の川銀河系・太陽系・地球上に発生した生命のDNAを約100年間バトンタッチする存在が、私であることが見えてきた(もっと切り詰めて説明すると、自らの発生時に胎盤の中で生殖細胞が分離し、それを思春期まで保持し続け、両性の減数分裂した生殖細胞を合体させ、次世代を誕生させているのみである)。
 この限りでは私の生に目的など存在しない。

2.意識の発生
 ところが私は意識を持っており、これだけで思考停止という訳にはいかない。
 現在の脳科学では、意識については、まだはっきり分かっていない。
 私なりの解釈では、生活体験(生命現象)を脳内に記録する過程そのものであり、海馬あたりの機能でなかろうか。コンピューターに例えれば、計算を続け結果を内部で記録する際に、並行して印刷出力するようなものが意識ということである。これがなくても計算し続ける。
 つまり私は意識とは別に生き続けるのだが、その過程を横で眺めているようなものである。
 生物は、当初は、例えば化学物質を捕獲し吸収することをより巧みにできるよう仕組んで(考えて)いた過程があり、これが高じて意識が生まれ自分で操作している感覚になった。
 このような過程で自己認識が生まれ、さらに生き方について考え始めたのであろう。

3.何をしたいか
 ここでどう生きたいかという欲求が生まれる。
 A.マズローの5段階の欲求を修正した山田仁史流の説明をすると、次のようになろう。
 @自己保存
  生き続ける欲求であり、これがなければ生命は存在し続けられない。
  この欲求はホルモン等様々な内部刺激からもたらされ、意識で自由に操作できないようだ。
 A繁殖
  次に、DNAをバトンタッチしていく欲求であり、これがなければ生命が代々繋がっていかない。
  これもホルモン等の内部刺激で、期せずして恋に陥ったり、避けられな衝動が伴い、やはり操作し難い。
 B自己実現
  基礎的欲求が満たされると 次には、自律的生き方を考え始める。
  これには、あらかじめ決められた方向性はない。
  自らの遺伝子、それまでの経験から方向が出てくるというのがA.フロイト流解釈である。これは、ヒトの行動について物語をつくっただけで科学的根拠に乏しいように思える。
  A.アドラーは、目標を意識し、それに向かって進むという解釈をしている。A.フロイトの逆方向の発想だが、やはり科学的根拠に欠けるのではなかろうか。
  ただ、今日の我々には、受け入れ易い解釈であろう。
 C自己承認
  自己実現を意識した生き方の次に、他者からも認められたいという欲求が生まれる。この欲求の発生が科学的かは説明し難い。
 ちなみにA.アドラーは 共同体感覚こそ理想的規範としている。隣人を愛すべきとアプリオリに規定している。
 これは、多くの人が賛同するだろうが、絶対的な命題とするには無理がある。

 ただし、欲求の内容には、人それぞれ多様な考え方があり、ここは、自らの考え(欲求)として宣言せざるを得ないのではなかろうか。これは、M.ガブリエルの新実在論で無限に多くの意味の場が並立していることであり、AIには越えられない大事な点であろう。
 ちなみに、私は、I.イリイチ流ののコンビィビィアルな社会を形成しその中で生きることを求めると宣言しておきたい。
 
4.行動の選択
 このような欲求の下でどのように行動するか。
 物理的環境、制度的制約の下での行動であるが、さらに、自分の欲求を実現するためには、個人的にも社会的にも整合性のあることが求められ、このために正しさが必要と考えられる。
 正しさとは、科学的真実に沿うこと、正義に叶うことである。
 このうち、正義に叶うこととは倫理的正しさであり、いくつかの捉え方がある。
 @功利主義
 功利主義はリバタリアンが主張する倫理規範である。
 帰結主義とも呼ばれ、社会全体の効用がよければよいと考える立場である。ただし、効用の少ない者への補填を否定するものではない。
 この考えは、「最大多数の最大幸福」の言葉のもとで、ベンサムによって提唱され、ハイエク、サッチャーなどに引き継がれ、今日の経済的活動の基礎となっている。
 A徳論
 徳は保守が主張する倫理規範であるが、コミュニタリアンの主張と重なる。
各自が生まれ育った地域文化(コミュニティ)の中で育まれる規範こそ、実際的な行動規範として成立しうるとして「徳」が主張される。
 古くは、アリストテレスによって、近年では、白熱の講義のM.サンデルなどによって引き継がれている。自分なりの生活感覚から何が正義か考えようとするもので、それなりに理解できるが、普遍的な正義を導出することはできないように思える。
 B義務論
 義務論は、理念から導出される規範であり、リベラリストが賛同する。
 普遍性を持つ倫理として主張されるものであり、「あなたの意志の格率が、常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」とするI.カントの定言命法に源がある。また近年では、J.ロールズが再検討し、コミュニタリアンと議論を展開してきた。

 転換の時代の倫理は基礎から考え直す必要があり、義務論を取らざる得ないのではないかと、私には思える。

5.規範の取得
 ところで、一人一人がこのような思考過程を経て、それぞれなりの規範を身に付け、生きている訳でない。何らかの方法で、人生初期に規範として外から取り入れている。それぞれがの心が囚われるものを信仰している。
 人類の歴史において、各人が規範を形成してきた方法を山田仁史の「人類精神史」を参照して説明すれば次のようになろう。
 @神
  超越した神の存在を感じ、宗教が生まれ、これによって社会の秩序も得られる。
  ただし、当初の仏教には超越者は介在していない。
 Aカネ
  次いで、近代社会の形成の中で カネへの信仰が生まれた。それなりの法制度の下で自由主義経済が展開されている。
  しかし、今日様々な困難に直面している。地球環境問題について、温暖化ガス排出量の個々人にとっての許容量に鑑みれば、一定以上の所得は過分な排出に直結し、倫理に背く結果になるのではなかろうか。十分性の制約から、J.ロックの所有権(私有財産論)が成り立たなくなっている。
  それでは、カネへの信仰を否定できるのだろうか。
  今日の日本では、カネをばらまき社会を動かそうとする施策が横行している。また、多くの経済活動で、自らの利益のためのルール違反が発覚している。これらを建前で否定するとしても、このような信仰の否定は極めて困難である。
 というより、一般に、信仰の自由を否定してはいけないことになっている。カネへの信仰についても否定できず、社会が行き詰まっていることは明らかであろう。
 B情報
  行き詰りの問題は取り敢えず脇において次の段階の信仰は、多くの他者の意見である。
  情報の行き交う時代には、多くの人の発信を聴き、自分なりに判断して取り入れることとなる。
  ただし、これにはポピュリズムの危険性が伴い、自ら判断できる力を獲得すべきと言われる。
  このため、J.デューイ流に言えば、社会としてコモンマンを育てる教育が大切となる。
    信仰に足る情報とは、カネを目的としたものやフェイクも厭わない興味本位のものでなく、集合知を形成していけるものでなければならない。私見では、このための我が国なりの情報システムは、顔の見える地域社会のものとなろう。

 いずれにしろもはや神やカネでなく、多くの人の意見を聴きつつ、何が真実か・正義か自分で判断していく他はない。
 ただし、後期高齢者となり、年金によって一定の生活を確保している私の発言には、説得力はないであろう。

6.実践
 自らの欲求を明確にし、真実に沿い、正義に叶うことを前提として、日々の行動を選択していく。
 社会的調整が必要なことがらについては、皆と話し合う必要があり、J.ハーバーマスの熟議が求められる。ただし、この熟議で皆の納得する結論を期待することは容易でないことは、N.ルーマンなど多くの人が指摘している。
 この限界を超えるため、政治的決定が求められる。
 しかし、自分が妥協でき、納得できる方向には進みそうにない。

7.私的実践
 最後に、今、私自身が何をやっているか。
 ・「富山を考えるヒント」(四半世紀以上継続しているホームページのサイト)を核として社会の在り方を考え続けること。
 ・各種の出版物等から先端科学の展開を知ること。
 ・有機栽培の試行錯誤。
 ・ピアノによる情緒的喜び(実際は練習)。
 ・数独による課題解決の喜び。
 ・健康維持 食事、散歩、・・・。
 ・関係的社会資本の蓄積 見守り隊。

Feb.16,2023

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