リベラルをな社会を形成するリベラルな主張をすることの状況が悪くなっている。これをの状況をどう改善していくか。しかし、リベラルをまず大事にするのは発想が逆転している。どう生きたいかが先きであろう。 これは、各自がそれなりに主張すべきことである。私としては、支え合って仲良く生きていきたい。I.イリイチのコンヴィヴィアルな社会(共愉社会)である。 地球温暖化の中で現在の社会が崩壊していくのは間違いないだろう。いずれ、終局的には、かなり早い時期に、自給自足的な小集団でバラバラに生きていかざるを得ない状況に陥るのではなかろうか。 これを見越して、今後を生き抜いていくためには、身近な仲間が支え合って仲良く生きていく社会が必要であろう。 各人をどうケアするか。誰もがそれなりのケアが必要である。そうした中で、ケアに欠ける人が無いようしていかなければならない。 それは、家庭内か。しかしその負担は隠されがちである。 それとも社会保障制度か。これは税負担が必要となるがそれは拒否されがちである。 他方、地域社会のボランタリィな活動に期待するのか。これは必ずしも盛んでない。 いずれにしろ、これらが、うまく重なって機能していかざるを得ない。 そこで、どのような未来像となるのか。皆がどう行動するのか。その物語を描くことが必要となる。 今考えられる新たな方向としては、共同社会がそれなりに存在し、そこで生き方が育まれる仕掛けが必要である。 リベラルな発想と共同社会は一見相性が悪そうだが、この仕掛けの構築こそ大切である。「歴史の終わり」のフランシス・フクヤマも指摘しているところである。 今日、居場所を創るという議論が盛んになされているが、これが糸口ではなかろうか。多様な居場所に人が集まり、お互いに知り合うことが出発点である。各人はこの仕掛け創りに参加しなければならない。 地域社会でのボランタリィな活動は当然、強制される訳ではない。しかし、今日子育てに父親も参加するのが当然と主張されるのと同様に、地域づくりにどんな人も参加するのが当然とされる時代がくることを期待したい。声高にこのように主張するのではなく、多くの人の様々な活動の中で醸成されていくことを期待したい。 リベラルな主張もこうした行動を背景として展開していく必要があろう。 あるいは所詮無理と考える人が多いかもしれない。 話題がずれるが、リベラルな政党もこのような物語を明確にして、個人的にはそれなりの行動をし、その中での政治の在り方を考えて、政策を主張していかないと再生できないのではなかろうか。 (Dec.02.2023Orig.) 表紙に戻る |