如何に生きるか(理論編)@生き方を考え直す必要 地球温暖化等により、対応困難な社会の大転換が起こりつつある。 このため、我々はどう生きていくか改めて考える必要がある。 我々は、各自の持つ生活規範に沿って生きている。この生活規範(生き方)は、各自が生まれてからそれまで生活してきた環境の中で身に付けている。 ちなみに、特に、生活規範を与えるものとして宗教が挙げられる。各個人が持つ宗教を否定することはその生活を否定することであり、その規範が社会に極めて不都合な影響を持つ場合に限って調整を求めることになる。 ただ、科学の進歩によって、宇宙の誕生から人類の発生までかなりのことが分かってきた。このため、神の存在への疑問も生じている。また、生活の安定の中で生き方が世俗化し、宗教から離れている人も多い。 このため、我々は、その生き方を主体的に検討し、各自なりにその生活規範を再構築することが必要となっている。 以下は、私自身の考え方の粗筋である。 A我々の存在 宇宙の成り立ちや生命の進化等の解明の中で、我々個々人は、歴史上の一定期間地球上でDNAを引き継ぐ存在に過ぎないことが見えてきた。時には、人類の持つ文化に影響を与えることもある。しかし、人生の目的やあるべき姿等は、アプリオリにある訳ではない。 M.ハイデガーは、その実存の議論の中で、ダスマン(ただ日常性の中に生きること)を避け、世界に意味を与えつつ生きたい(「世界-内-存在」でありたい)と主張している。これが、生き方を考える出発点となるのだろう。私自身も賛同する。しかし、現実の世の中にはダスマンが多いのではなかろうか。 B環境の捉え方 次に我々が生活している環境をどう捉える(認識する)か。 近年の脳科学の進歩の中でかなりのことが分かってきており、五感への刺激と脳の持つ記憶とが認識を形成しているようだ。 これは、I.カントの純粋理性批判の認識「感性による直観と悟性による思惟の協同によって成立」が当を得ているということであろう。 ただし、このような認識は、自らの思い描く社会(環境)の在り方に沿うよう偏りを持ちがちである。 我々は、この認識の限界、癖を十分に意識しつつも、真理に沿って理のある判断をするよう努める必要がある。この意味での正しい認識を心がける前提がなければ、生き方の議論は崩れる。 例えば、R.ヴァイゼッカー「荒れ野の40年」の講演にあるように、自らの過去を偽ろうとする歴史修正主義は、受け入れられない。 C行動規範の考え方 個別の課題への対応については、I.カントの実践理性批判にある定言命法「汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」に沿いたい。 自らが納得でき、他者にも受け入れられる(理解される)規範は包括的に整合性があり、一貫性を持ち、普遍的であることが要件であろう。 D正義 さらに具体的な行動のための判断については、J.ロールズの正義論「無知のヴェールの後での判断」を基礎として考えていきたい。 コミュニタリアンは、無知のヴェールの後での判断など取りようがないとして、現実社会の徳を列挙しようとしているが、これでは変革の時代に対応できないのではなかろうか。 ちなみに、自ら考えようとせず他者に頼るのはポピュリズムと言われ、社会の在り方に責任を持てない。各自なりに信頼できるリーダーに沿うこともあり得るが、真実に基づかない言説(フェイク)に惑わされないよう注意する必要がある。 なお、J.ロールズの正義論には平等に関する原理があり、「基本的権利は平等に分配すべき」で、「不遇な者の境遇を改善するための不平等は是認できる」とされている。 E社会的活動の必要性 我々は、所得のために日々の労働に追われており、これを超えた活動を忘れがちである。 これについては、H.アーレントが「人間の条件」で主張するように、我々の生き方として、「労働」、「仕事」のみでなく人と人とが直接に結びつく「活動」が求められている。活動(政治)がなくては、社会に責任を持てない。 ただし、この好例として、古代ギリシャの政治参加を好例として挙げられいるが、奴隷を含め多くの支える人の存在が前提であった。これは、今日の社会での活動がかなり困難なことである証しかもしれない。 F社会的活動の規範 社会的活動の在り方としては、J.ルソーの社会契約論である「一般意志」を取り上げたい。個々人の特殊利益を求める特殊意志を重ねるのでなく、共同体にとっての利益を基準とする。 一般意思を個々人が想定できるかは、大きな課題であるが、自分なりに考えざるを得ない。 ちなみに、J.ルソーはこの困難性のため、生きていく社会として小集団を想定し、直接民主主義を主張している。 G多様な発想の存在 このような規範に沿って物事を判断していくとしても多様な考え方があることを確認しておく必要がある。 この多様な考え方を捉える枠組みとしてJ.ハイト等のモラルファンデーションを取り上げたい。詳しい説明は省くが、これには「個人の尊厳」と「義務などへの拘束」2つの軸がある。政治心理学では、政治意識が、この2つの規範意識の軸の強弱の組合せと対応しているとされている。 ・リバタリアンは、規範意識自体を忌避する姿勢がある。 ・保守は、義務などへの拘束は強く主張するが、個人の尊厳はそれほど重んじない。 ・リベラリストは、個人の尊厳を強く主張し、義務などへの拘束は忌避する。 ・双方の規範意識を強く捉えるのは、我が国には見出し難いが、宗教的左派となるそうである。 私自身は、リベラリストに同調している。 H熟議する 多様な発想があることを前提として、社会の在り方を検討していくには、十分な議論(熟議)が必要である。 対話して合意に向かうことは必ずしも容易でないが、J.ハーバーマスの対話的理性に賭けたい。 ちなみに社会を導く政党は、それぞれの発想に基づく包括的で整合性のある政策を提示し、広く議論を続けるべきであろう。例えば増税の主張が票を減らすからと言って、財源の裏付けのない政策は意味を持たない。 I自分の行動 以上のような規範の検討を踏まえて、自分なりに整合性のある行動を取るよう心掛けたい。 Aug.17,2023 表紙に戻る |