無宗教者の課題「三田一郎著『科学者はなぜ神を信じるのか』BlueBacks2018年」を読んだ。多くの科学者は、宇宙がなぜ創られたかを探る限界に、造物主としての神を描くようだ。 ホーキングのように虚時間を考え、宇宙の出発点の問題を回避しても、そのような宇宙全体はどうして創られたかという疑問が残る。 他方、このような造物主としての神に対して、行動規範を伝授する神を見る科学者もいる。 ただし、これに意味を見出すという表現は、宗教の外からの説明であり、信じる者の発想ではない。信仰する者は理屈を言う必要はない。 しかし、古今東西、宗教者(時には為政者)はこれを自らに都合よく解釈し説明してきた。 ちなみに日本の神道は、創造神話を一応持っている。また、まとまった行動規範の提示などはなく、長い歴史の中で、日本人の生活習慣の中に幾つかの行事等が紛れ込んでいる程度である。いずれにしろ権力の正統化のために専ら用いられてきたといえよう。特に、明治維新以来、昭和初期までの経過は際立っている。 他方、仏教の開祖者である仏陀は自ら修行により生き方(悟り)を得た。ここで仏陀は神を立てていない。 しかし、誰もが修行して悟りを得れる訳でない。このため、大乗仏教では象徴となる仏様を描いた。ただし、禅宗は修行を求めているようだ。 こうした仏教の仏様が、キリスト教、イスラム教の神に対応することとなろう。 無宗教の者は、自らの行動規範を自ら形成する必要があるが、これは日常の生活体験の中で自ずと形成されていくものであろう。 ただし、自らの行動規範を改めて確認しようとすると、自らの発想で行動規範の基礎となる正義論を展開することが必要となろう。 しかし、各自の正義論が一致するわけではない。 小生の発想では、その正義論は、一貫性があり、社会的整合性を持つことが必要であろう。 各々は、自らの正義の考え方を宣言し行動していかざるを得ない。 ただし、実際の生活の中では、他者と議論(熟議)し妥協していかざるを得ない面がある。この場合もそれなりの道理が求められる。 無神論者、宗教を持たない者は、自らの生き方を自ら反省し続けなければならないのだが、正しく生きることを念頭に置かない人が、今日、多数生まれているのではなかろうか。カネを稼ぐことや権力を保持することに執着し続けている。 Apr.25,2023 表紙に戻る |