今日の科学を先取りしたスピノザ


 B.スピノザ[1632〜1677]について詳しく知っているわけではない。以下は、新書本を拾い読みし、私なりの勝手な解釈で、思い巡らしたことを記したものである。

 スピノザは、神を自然の摂理そのものと捉えている。今日、我々は、相対性理論・量子力学で自然(我々の宇宙)の摂理を捉えているが、この結果、我々の科学的知見は、スピノザの捉える神と重なってくる道理は十分にある。

 まず、138億年前のインフレーションで我々の宇宙が生まれたことを受け入れ、その後の物理的作用の中で現在の宇宙が存在しているとすれば、自然、そして我々の生に、根源的な目的があるとは考え難い。我々は、進化の中で形成された遺伝的性質、生後育ってきた環境の中で身に付けた性向の下で生きている。これを脳の現象に即して言えば、特定の状況下でドパーミンが排出され、喜びを感じることである。
 スピノザは、「われわれをしてあることをなさしめる目的なるものを私は衝動と解する。(『エチカ』第4部定義7)」としている。

 我々は、この性向からもたらされる衝動を自ら確認し、それを洗練しつつ、生き方を求めていく他はない。
 スピノザは、「『最高善』[最高によいこと]とは、『自分の本性よりもはるかに力強いある人間本性』を享楽することである。(『知性改善論』第13段)」としている。

 さらにスピノザは、「それも、自分一人でなく、できる限り他の人々と一緒に。(『知性改善論』第13段)」と続けている。
 これは、我々は、人、その他生物、自然との繋がりの中で生きており、それらがうまく調和するよう生きていかざるを得ないことに言及しているのであろう。

 また、現在の脳科学の理解では、脳は外部からの刺激、内部の記憶 多様な情報を整理し、都合のいい解釈を生み出し、注意する事柄を次々に切替ながら物語を創っているとされている。これが我々の意識そのものであり、捉え方によっては、我々には自由意思というものはないということになる。
 スピノザは、「自由であると信じられている精神の決意は、表象そのものあるいは想起そのものと区別されないのであって, それは観念が観念である限りにおいて必然的に含む肯定にほかならない[・・・・]だから精神の自由な決意で話したり黙ったり、その他いろいろなことを為すと信じる者は、目をあけながら夢を見ているのである。(『エチカ』第3部定理2の備考)」としている。

 この意味で個々人に主体的な自由はなくなる。自由というのは、社会的な意味を持つ言葉であり、他者の意識を制約しないこと、多様性を許容することであろう。
 スピノザは自然(神)の摂理の下で起こる様々な事象を許すこと(許容すること)を強調している。

 以上のように、スピノザは、神の生きる時代の中で、神を自然の摂理として考え巡らすことによって、今日の科学の知見に到達していたのではなかろうか。そして他者と調和しつつ、磨き上げた自らの本性を享楽することを最高の善としている。

Dec.15,2022

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