非暴力の困難さウクライナ、イスラエルで戦争が続いており、今、非暴力について考えてみたい。「踊共二著『非暴力主義の誕生−武器を捨てた宗教改革−』岩波新書2025年」を読んだ。 本書は、再洗礼派(メノナイト、アーミッシュ)の非暴力の歴史である。多様な記録が残っており、多くの人の個人的な行動をきめ細かく紹介している。 取り敢えず考えたことをメモしておく。 ◎如何にして非暴力が可能か非暴力を旨とする再洗礼派の命運は、領主等の統治者の下では領主等の姿勢によって、さらに近代国家では徴兵制の運用によって翻弄されてきた。結果として地域・国家を超えて逃避、移動の連続であった。再洗礼派でも個々人によっていろいろな行動を採ってきた。しかし、再洗礼派の集まりとしては、信仰の下で非暴力を貫いてきている。 なぜ、信念を貫くことができるのか。信仰は理屈ではなく、他者にその可否の議論などできない。 ところで、アーミッシュは近代文明を避け、極めて質素な生活をしている。地球温暖化が進み混乱した社会では、こうした生活姿勢に倣うべきことが多いと思われる。本書を手にしたのはこのためでもあった。しかし残念ながら、このことについては、ほとんど言及されていない。 ◎聖書の教えところで、キリスト教の各派は、それぞれ、聖書の教えを守っているとしている。しかし、宗派それぞれが都合のいいように解釈しているのではなかろうか。ルターは、聖書をドイツ語に翻訳したが、その際、聖書と異なるとは言えないが、自分なりの翻訳をした部分があるようだ。そして旧来の教会と争った。 エラスムスも聖書に沿っていたが、戦いを否定した。ルネサンス人道主義とされるているが、大きな流れにはならなかった。 再洗礼派は、非暴力主義を貫き、これを強い信念で維持し現在に至っている。 話は別だが、神を自然の摂理として捉えたスピノザの発想は、私にも受け入れることができる。 ◎正義論聖書をどのように解釈するか。その背景には、根源的な道徳律としての人道主義的なものがあるのだろう。しかし、信仰については、分析して解釈することはできない。宗教を離れて、正義について考えれば、徳論が人道主義に近い発想となろう。人々が何を道徳として捉えているかを鑑みる発想である。これはアリストテレス的道徳観で、近年では、コミュニタリアンの発想とされている。 しかし、地球温暖化などの新しい事態に対応する際には、既存の通念から離れ、各自が根源から考え直す必要があろう。これは、カントの義務論であり、近年では、ロールズの正義論に繋がろう。 ◎平和の実現本書でも縷々述べられているが、戦時体制に入り込むと良心的兵役拒否は極めて厳しい環境に置かれる。どうも、世界は、そして日本もこうした体制に入りつつあるのではなかろうか。アメリカの要請に沿って軍事費をGDP比の2%に上げることなどを自発的に発言している政治家なども既にいる。 こうした時期には、戦争回避のために、平和維持のための行動を大々的にとる必要があるのではなかろうか。 かつての日本での平和主義の主張は、憲法第9条に寄りかかり、特段の努力はしてこなかったと思われる。こうした状況からは抜け出し、今、多様な国際貢献を積極的に行うことが必要であろう。 さらに、軍事費についてその限度を慎重に考え、国際的に宣言することも一策ではなかろうか。 Jan.25,2025 目次に戻る |