コンヴィヴィアリティのための道具イリイチ著「コンヴィヴィアリティのための道具」を再読した。本文はかなり読み難くいが、私の理解力はともかく、内容自体の難しさ、文章の難解さ、翻訳の不手際などいろいろと指摘されている。これを勝手に自分の都合のいいように読むこともできるが、十分に気を付ける必要があろう。ただし、訳者は、原文の厳密な理解にこだわらす、自分なりのルーズな解釈をしてもいいのではと助言している。 本書は、1973年に著されたもので、現在の産業主義的生産様式では行き詰ると指摘している。 同時期にローマクラブの「成長の限界」が出ている。これは、メドウズが、コンピュータシミュレーションを行ったもので、人口や経済活動の変化に伴って、資源消費等が変化し、いずれ行き詰るという結果を出したものである。その内容は分かり易いが、多くの人はマルサスの再来としてあまり顧みなかった。 これに対して、イリイチは、本書で、教育や医療等を取り上げ限界の具体的内容を分析している。各分野の制度の充実はある程度まで肯定できるが、まもなく行き過ぎる。この第二の分水嶺を超えて、人々が制度に巻き込まれ、いろいろと不都合がもたらされる。これは計画のし過ぎとも表現されている。人々が制度の中で主体的に考えなくなり、いずれ体制全体が崩れていく。(私自身は、社会計画をライフワークとしているのだが、自省する必要がありそうだ。) こうした中でもたらされる行き詰まりとしては、環境の限界、人々の格差の拡大等を挙げている。この時期に、成長の限界をこのように述べていることは、慧眼と言えよう。 現在のWebサイトに多くの書評が出ているが、評価はかなり割れている。つまり成長の限界に来ていると考えている人と考えていない人に分断されているようだ。人々の現在の地球温暖化の捉え方もこうなっているのであろう。経済成長をやめるべきと考える人と一層の成長を求めるべきとする人である。温暖化に鑑みれば成長をやめるべきと意識しても、みずからの仕事、消費生活を考えると、成長をやめるべきと言えない人も多いことであろう。 ところで表題のコンヴィヴィアリティは、本書では自立共生的と訳されている。趣旨としては、制度に巻き込まれず、自らが主体的に考えていく仕掛けを求めているものである。 語源的には、com=共に、vivial=生きるである。ただし、辞書では「わいわいした」、「宴会気分の」という訳語もある。このため、私自身は、「コンヴィヴィアルな社会」を「共愉社会」と訳している。そして、「皆で支え合ってわいわいと楽しく生活していける社会」を私自身は求めている。 いずれにしろ、今日の多くの課題は、各自が主体的に考え、皆で議論し合い、必要な対応を図っていかなければならない。実態としては、解決困難な課題が山積みになっているのではなかろうか。 Jan.09,2025 表紙に戻る |