能力主義を見直す

 現在、我が国を含む世界の多くの国では、貧困と国民の分断が大きな問題となっている。

 この問題を根本から考えるには、まず正義とは何かから始める必要があろう。
 私としては、カントに基礎を置いた、ロールズの「正義論」に沿って考えたい。

 そして、能力主義が果たして平等論に適うのか再考する必要がある。

 そもそも公正な能力主義は可能であるのか。まず、能力の的確な評価は可能であろうか。また、その報酬が青天井となっていることは、生産活動を社会の皆で行っているのに、どこかが間違っている。これが極端な格差を産むことになっている。
 さらに所得が多い人は、他者を支配することになりがちなことが大きな問題となる。
 また、能力ガチャ(特に今日の社会で稼ぐ力)に恵まれない人をどう支えるかという発想も必要であろう。
 能力主義に沿い、全体としての生産を拡大し、その成果を配分するというトリクルダウン仮説は、実現していない。
 近年しばしば指摘されているが、能力主義を受け入れているのは、エリートの傲りではなかろうか。

 他方、人々は、その尊厳を維持するための財産とそれを超えた富を混同している。その結果、各人は、その時間を生かすことに失敗している。これはアーレントの指摘である。また、エンデの「モモ」の時間泥棒の話でもある。そもそも必要な財を超えて富を求めるのは、農耕を始めて以来多くの争いをもたらしてきた人類の誤りではなかろうか。

 人間の尊厳を取り戻すためには、複数の価値を認め、多様性を受け入れていく必要がある。このため、各人は、多様なコミュニティ、アソシェーションの幾つかに属し、他者との繋がりの中で承認を得る必要があるとロールズが指摘している。これはマズローの欲求の5段階説にも出てくるものである。

 現在我が国では、経済成長ばかりを課題として捉えている。しかし、格差の少ない新しい社会・生き方を形成していくためには、トリクルダウン仮説の誤りを認めるとともに、稼ぐためのみに生きることを改める必要があろう。国の生産全体をそれなりに分け合えば、それなりに対処可能のはずであり、新しい社会経済システムへの移行を検討していく必要があろう。

 ちなみに、地球温暖化ガスの排出削減の必要性に鑑みれば、経済活動を縮小する必要があることは明かだし、各人一人当たり排出許容量を想定すれば、一定以上の所得・資産は正義に沿わないことも明らかであろう。

 ところで、NISAの政策はなぜ必要なのだろうか。時間泥棒に捉えられることを促しているだけではなかろうか。現在の我が国の政策の多くは、格差を助長するものとなっている。例えば、何かを購入することを支援する施策は必然的に逆進的になることを理解していない。また、税制もかつてに比べ累進性が大きく削減されている。

 あるべき善い社会を想定し、それに沿う生き方こそ、各自にとっての善い生き方となるとは、プラトンの「国家」での発想である。

 今日の問題の基本的な所在は、実は、各自が善い生き方(正義に沿った生き方)を指向しているかということでなかろうか。このためには、教育、各自が育つ環境をしかるべきものとして整えていくことが大切である。そしてこのためには社会の各自が善く生きようと努めている必要があり、循環論法になってしまう。

Apr.17,2025

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