空と色

 仏教での「空」とは、存在がないというのでなく、存在の意味(目的)がないと解釈した方がよいのではなかろうか。そしてこれと対峙されるのが「色」である。仏教の通常の解釈と異なるかもしれないが、私はこのように理解している。
 以下、分かり難い文章となっているが、メモとして残して置く。

 「ニール・シース著『「複雑系」が世界の見方を変える』亜紀書房2024年」では、複雑系の理論により、宇宙に存在するものが全て繋がっており、常に変化し続けていることを説明している。
 その上で、ゲーデルの不完全性が指摘する経験科学の限界から、形而上学の価値(存在)を認め、哲学や宗教を引用した考察を展開している。形而上学では主観的な議論の展開が避けられないが、古今東西の諸思想を注意深く検討せざるを得ないのかもしれない。

 プラトンの壁に投影されたイメージに対して、我々の背後にあるイデアは、宇宙の存在そのものであろう。それは複雑に絡まり繋がり合っており、常に変化し続けている。これを意識(大文字の意識)として捉えれば根源的認知ということになる。
 ところで、この根源的認知には、目的などない、これが仏教でいう空であろう。宇宙の存在に目的などないだろう。
 そして、我々の個人的意識(小文字の意識;イメージ)とは、外界(宇宙)から諸情報を我々なりに取り入れ、我々が内部(脳等)に持つ記憶等も合わせ形成するある種のバーチャルリアリティであろう。我々はこのイメージを利用していろいろと反応(行動)している。

 存在が空であることを理解できたとしても、何かをしようとするには、個人なりの方向性を持たざるを得ない。これが仏教でいう色であろう。これは遺伝的に受け継ぎあるいは生まれてからそれまでの環境の中で育んできたものである。

 我々は、空のみでは生きることはできず、空であることをいつでも自覚できる姿勢を持ちつつ、色に基づいて行動することとなる。
 ただし、以上のような理解は、経験科学の中からも演繹できそうだが、いかがであろうか。

Sep.06,2024

表紙に戻る