安楽死「児玉真美著『安楽死が合法の国で起こっていること』2024年ちくま新書」を読んだ。安楽死についての私なりの考え方を整理しておく。我々の宇宙の誕生後、太陽・地球の形成、生命の発生、そして人間の進化までが、化学反応によって起こったこと考えると、自然の理として「生きることの価値」などは生まれてこない。つまり普遍的な生きる価値などを主張しても、それは人が考えた虚構に過ぎない。 もちろん、自らの思考の中で、生きる価値を想定することを否定する必要はない。 しかし、生物進化の過程から、我々は生き続けたいという欲求を持っている。そして生きていくことを前提として、どう生きていくかが我々の生の課題となる。 ここで、我々は、どのように生きたいか自らの思いを宣言せざるを得ない。それを出発点として各自なりの整合性のある生き方を探っていくこととなる。 私自身としては、生きている以上、楽しく、そして皆と仲良く生きたい。 もし皆と仲良く生きていくのであれば、他者の生きていたいという欲求を尊重する必要がある。 自らの安楽死については、終末期において、激痛等が生き続けたいという欲求を上回った際に、尊厳死を選びたい。 ただし、このような意思決定については、気持ちが揺れるであろうから、しかるべき人に気持ちをしっかりと聞いてもらい、1か月程度経ても気持ちが変わらないときに始めて安楽死を迎えることができるのではなかろうか。 他者の安楽死については、その人の意向を明確に確認できる時のみ許容されよう。 本人以外が、勝手に判断することはできない。このため、終末期で意識がしっかりある際にはじめて実施できることであろう。 安楽死の判断を本人に代わって誰かがやることや、その判断基準に勝手に生きる価値を潜り込ませることは避けなければならない。 医療資源が枯渇し治療する相手を選択する際(トリアージ)には、相手の生きる価値を勝手に決めてはいけない。評価基準となるのは、治療に必要な資源とそれなりの回復の見込みであろう。 ここでは、治療に必要な資源として、その人が普段から生きていくために必要な資源を算入してはいけない。これを算入すると、障害のある人などがどんどん切り捨てられていくこととなる。 さらに資源が不足し選別が必要な際には、それぞれがこれまで生を楽しんできた期間を勘案し、より長く楽しんだ人にはご遠慮を願う、すなわち年齢の若い人の治療を優先するということではどうだろうか。 いずれにしろ、このような基準の実際の運用は容易ではない。 これらの議論はともかく、人々の生のために、最大限の資源を利用できる社会を普段から構築していくことこそが大切である。 Jan.22,2024 表紙に戻る |