生命の尊厳

 地球上の生命は、インフレーションを通じて宇宙が始まった後、我々の知る物理化学の法則で生まれた存在である。個々の生命は、DNAをバトンタッチしているに過ぎない。この事実からは、生命の尊厳は必然的に生まれるわけではないといえよう。

 ちなみに「生命の尊厳ないしは生命の不可侵とは、宗教や倫理学においては、感覚を持つ生物の多くの面を暗黙のうちに保護するべきだとする原則である。そうした面は畏敬すべきであり、聖なるものであり、あるいは他の意味で侵害されてはならない価値を持つとされる。この原則は、動物と人間の両方に適用される。例えば、いくつかの宗教では不殺生の実践は神聖であり、人生にふさわしいとみなされている。『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 07:49 UTC 版)」これは、人々の共生のために不可欠な原則であり、誰もが認めているということであろう。

 ただし、共生の範囲を自らの周りの狭い範囲にとどめると、人類の長い歴史が証明するように、戦争が容易に起こることとなる。我々は、第二次世界大戦後に共生の範囲を人類全体と認識し、地域的小競り合いはともかく、国家間の大きな戦争はなくなったと考えたが、最近の状況を見れば、この認識は破綻している。

 話は変わるが、それでは、個々人の安楽死が認められるか。
 リベラルな発想をする人にとっては、やはり個人の自由な選択によるとなろう。保守的な発想では、否定に傾こう。 安楽死を認めることによって、他者の生を否定することが起こり始める可能性が極めて高くなるため、安楽死を認めないという論法もあり得よう。しかし、リベラルな発想では、これはやはり不自然な論理で屁理屈と思える。

 私自身は、今、敢えて安楽死を選ぶことはしないが、無茶な治療をして生き続けたいとは思わない。また、知性を喪失した状況で生き続けたいとも思わない。このため、このような状況に陥った時、自律的な判断ができれぱ、安楽死を選ぶかもしれない。むしろ選びたい思いがある。
 しかし、取り合えず生きている間は生を楽しむことにし、生の喜びを感じ続けたい。

 いずれにしろ、宗教を持たないで自ら考えて生活しようとすることは、極めて厳しいことである。

Jan.15,2024

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