正義論の前に

 近代科学が進展する中で、人々が創り上げた宗教から離れる人が増えている。他方で自由を求め、煩わしい個々人の繋がりを避ける人も増えている。そして、人々の行動の多様な足枷がなくなってきている。
 ただし、この結果として、人々は、自らの生き方を自らが考えざるを得ないという、困難な事態に陥っている。人々は、建前としては、正しく生きるべきと発言するだろう。このことから正義論が大切になり、関連した出版物が出て、時には関連した議論の盛り上がりもある。

 しかし、正義論の前に、果たして、皆は、正しく生きようとする姿勢を本当に持っているのだろうか。また、持っているとしても、それの実践を妨げる厳しい環境があるのではなかろうか。これこそが、今日、大きな問題となっているのではなかろうか。

 正しく生きることへの姿勢については、今日の政治家、事業家は極めて怪しい状況に陥っている。
 政治資金についての不正は、露見しなければ差し支えない、露見しても政治家本人の行為と証明されなければ差し支えないという姿勢をとっている。これを国民が真似れば、社会の規範が腐敗し、社会自体の崩壊を招くこととなる。
 また多くの企業での多様な不祥事が起こっているが、これも金銭的利益第一主義で、見つからなければいいという姿勢で行われている。

 このため、皆が正しく生きようとする姿勢をどうやって身に付けるかが大きな課題であろう。これは、各自が生まれてから生きる環境の中で身に付けるのだが、現在の社会では悪循環が起こっているのではなかろうか。

 他方、正義を実践する環境については、格差の拡大と貧困の中で、厳しい状況に陥っている。互いに支え合うコミュニティを喪失し、困窮し孤立している人が増えているようだ。その結果、暴発的不正・犯罪が増加しているのではないだろうか。

 正義を声高に議論することも必要であろう。また、多様なボランタリィな活動も求められよう。これらと同時に、自らのコミュニティで、人と繋がり合いつつ生きていくことが極めて重要なのではなかろうか。

Feb.03,2024

表紙に戻る