老後ひとり難民「沢村香苗著『老後ひとり難民』幻冬舎新書2024」を読んだ。単身高齢者の生活はいろいろな脆弱性を持っている。 本書では次のような困難が並べられている。 @家事などの日常生活の行為が難しくなる。 買物、炊事、洗濯等々の手助けを誰がするのか。 A入院、重大な医療処置を受ける。 身元保証をどうするか。 必要な世話を誰がするか。 B退院後の生活を再構築する。 バリアフリー化など誰が担うか。 Cさらに心身の機能が低下し、サービスや住む場所を見直す。 転居の手続き、世話を誰がするか。 D終末医療に関する意向を表明する。 誰が伝えるか。 E死後事務に関する意向表明と手続きをする。 誰が担うか。 これらの困難に対しては、現在の制度では、地域包括支援センターのスタッフ、ケアマネージャー、民生委員、医療ソーシャルワーカー等がボランティアに近い形で支援している。しかし、一つひとつの困難への対処には難しいことが多く、単身高齢者はいろいろと厳しい状況に落ち込まざるを得ない。 こうした問題への対処は、基本的には自己責任として、単身高齢者はそれぞれが必要な準備をしておく必要があろう。ただし各高齢者の状況がどうあろうと、それを咎めることは難しい。 そして、多様な行政の支援があり、その在り方についていろいろと議論されている。現在、地域包括ケアといった制度があるが、これで諸困難が解決されるわけではない。ちなみに地域包括ケアは中学校区程度の範囲が想定されているが、きめ細かい対応が期待できないことは明らかであろう。具体的には、小学校区をさらに分割した程度の範囲で設定することが必要ではなかろうか。 こうした課題への対応は、行政のみに期待するのではなく、地域の住民が自ら支え合う組織を創っていくことが効果的ではなかろうか。 社会集団の類型として、近代以前の類型と近代以降の類型に二分する考え方がある。例えばマッキーバーはコミュニティとアソシェーションを対峙させている。コミュニティは、人と人との過剰な繋がりを持ちがちであり、肯定的な側面ばかりでなく、否定的な側面も抱えるものとして捉えられている。これに対してアソシェーションは地縁に縛られないボランタリィな集団とされている。そして歴史的には、社会は近代化によってアソシェーションに進むとしている。今日の老後ひとり難民の増加はまさしく古い組織から抜け出しながら新しい組織が形成できていない状況であろう。しかしこのように社会の2種類の組織を対峙させるのでなく、お互いに支え合う自発的な組織を想定できないだろうか。 家族をとりまく組織として、市場経済や行政でばかりでなく、公共圏という概念がありうる。かつて近代化以前の社会では、都市地域を除けば、生活の殆どはそれぞれの村の範囲内で、家族・地域社会が助け合い自給自足で行われていた。近代化以降、次第に市場経済が入り込み、雇用されて働き、商品を購入し、消費するという生活となった。そして、この中での様々な社会の課題を解決するため、政府が多様な役割を担い、我々の生活を支えるようになってきた。従来、家族・地域社会が担っていた機能は、市場・政府に委ねるようになり、かえって自らの発想による主体的生活を失っていった。こうした中で、自らを取り戻すために、主体的に活動する場として公共圏が提唱されている。(公共圏は、社会学者ハーバーマスの提唱するもので熟議の場として捉えられており、公共圏という用語には若干違和感があるかもしれない。) 公共圏は地域住民が自由に集まる場の形成として考えられるがその在り方は地域毎に地域なりのものとなろう。単なる人が集まる空間でなく、コンビニやカフェの併設も考えられるかもしれない。具体的な内容はともかく、こうした場は、高齢者ひとり難民のある程度の支援とともに、その増加自体を防ぐことが期待されよう。また子供食堂・学童保育など高齢者以外への支援も含めて考えることができる。子供達がここでくんずほぐれつして遊べば、最も効果的に次世代を育てることになるのではなかろうか。 実際に進める方法としては、空き家の有効活用があり得よう。行政が空き家を取得し、地域に解放する。一応、町内会の受託が考えられるが管理は、余裕のある退職者に依頼する。ただし、特段の責任は求めないよう工夫する。管理費は地域住民の寄付(例えば1口1万円/年×100人や遺贈)等に依存する。地域住民のある程度が理解し、一緒になって仕掛けを立ち上げれば可能ではなかろうか。 Aug.05,2024 表紙に戻る |