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参考 地域創りの意思決定
第2節 行動原理 ―正しく生きる―
第4項 規範と行動

補足 拮抗する価値

総合社会政策のための基本理念
総合社会政策基本問題研究会報告書
「総合社会政策を求めて」
経済企画庁国民生活政策課編 昭和52年
第3章から引用
40年前の文献だが基本的な課題がまとめられている。
 

 社会諸理念の見直し

「総合社会政策」の確立のために、既成の概念にとらわれず社会諸理念を基底的レベルで再検討し、対立する諸理念の調和の道を探り、これを「総合社会政策」の基礎とすることが必要である。

1 「総合社会政策」の確立のためには、既成の概念にとらわれず、かなり基底的レベルにおいて理念を探り出していく必要がある。その際、トレード・オフ関係にある理念または補完関係にある理念をどのように整理すべきかという観点が重要である。また、理念は理念、政策は政策という二分法を避け。理念と政策をつなぐ中間レベルでの検討を重視する必要がある。(パラグラフ1−3)

2 個人主義と集団主義。欧米社会にみられるような個人主義は我が国ではあまり発達せず、集団の役割が顕著である。今後は、個人の自立性、自発性がもっと尊重されるようになることが望ましいが、これは、我が国が西欧型の個人主義社会になると予想することではない。家族や地域共同体などの中問的集団の機能を生かしつつ、個人主義と集団主義の最適な組合せを模索していくことが必要である。(パラグラフ4−9)

3 自由と平等、自由と平等を同時に保障することは容易ではない。「法の前の平等」という形で形式的な平等を保障し、具体的な経済行動は「市場」を通じて自由に行えぽうまくいくというのが「市民社会」の考え方であったが、実際には、市場メカニズムは累積的不平等を生むなどの欠陥を持っていることが明らかとなり、具体的な平等をとり入れる必要が生じている。自由と平等の最適なバランスをどこに見出し、どのようにして確保していくかがこれからの重要な課題である。(パラグラフ10−18)

4 社会的公正と効率、社会は「市場」と「組織」の混合物であるとみなしうる。「市場」についての公正はゲームのルールが等しく遵守きれることであり、「組織」についての公正は「好ましい」結果が得られることであるといえよう。「好ましい」結果が何かについて合意に達することは容易ではないが、「ニーズに応じる分配」、「貢献度に応じる分配」、「機会の均等」などの原則をどう組み合わせるかということに帰着することとなろう。この組合わせ方いかんによって、経済的効率に対する影響は異なるが、より平等な分配が一概に効率に悪影響を及ぼすとは断定できない。(パラグラフ19−29)


 「ソーシァル・ミニマム」の確立

 社会的公正と連帯の下に個人の自由と社会の活力が最大限に発揮されるよう、個人にとっての生活の最低限の必要を満たすとともに、祉会が満たすべき最低限の機能を確保すべきである。

 前述のような矛盾と緊張をはらんだ理念の調和を図るための1つの有力な方法は、「ソーシアル・ミニマム」の設定であろう。これは、前述の対概念のうち、集団主義、平等、必要原則の系列に属する原理であるが、これを一定の限度内で満たすことにより、それ以外の面でもう1つの原理系列、すなわち個人主義、自由、能力原則を最大限に生かす条件を作り出すことが期待される。(パラグラフ30)

2 「ソーシャル・ミニマム」は物的、経済的な範囲にとどまらず、自然環境、生活環境、公共サービスヘのアクセシビリティ、社会的威信、文化の享受、精神的安定、自己実現などについて条件が整備されることを含む。すなわち、個人にとっての生活に関する最低限であるのみならず、広い意味での社会システムのパーフォーマンスについてのミニマムである。(パラグラフ31−33)

3 「ソーシャル・ミニマム」の基礎的部分の充足は政府公共部門の責任において行うべきである。「ソーシャル・ミニマム」のすべてを政府公共部門の直接の責任において充足するという考え方は、官僚化、財政負担の過度の膨張と硬直化の危険があり、社会の活力にマイナスの効果をもたらす恐れがある。「ソーシャル・ミニマム」の達成は社会のあらゆるレベルにおける自発性によって確保されるべきである。「ソーシャル・ミニマム」の設定基準、設定方法、費用負担などについての国民の合意の成立を促進することが望まれる。(パラグラフ34−36)

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第3章総合仕会政策のための基本理念



第1節 はじめに
第2節 個人主義と集団主義
第3節 自由と平等
第4節 社会的公正と効率
第5節 「ソーシャル・ミニマム」と活力ある社会


第1節はじめに


1 総合社会政策ないし社会計画を上述のようにきわめて広い立場から、トータルな社会システムの変化を対象とするものとして捉えるならば、その構想に当たっては、かなり基底的なレベルにおいてその理念を探り出していくことが必要となろう。すなわち、システムのある一局面にかかる政策の企画立案であれば、上位システムから理念の大枠が与えられ、その枠内において具体化の方向に進むことが可能である。また、システムの他の局面に適合的な理念との衝突、矛盾、対立の解決は一義的には上位システムに委ねることができる。しかし、システムがトータルなレベルに近づけば近づくほど、システムが理念の自己設定を行う程度が大きくなり、また多様な理念の調整を自己の枠内で行わなければならない範囲が増大する。総合社会政策ないし社会計画が取り扱うシステムはこの種の性質がかなり強いということができよう。

2 こうした意味において、本章では総合社会政策ないし祉会計画の購想に何らかの関連を有すると思われるかなり基礎的な理念のいくつかを取り上げ、特に理念間のトレード・オフあるいは補完関係をどのように整理したらよいか、との観点から若干の検討を行うこととしたい。この種の理念の検討は、抽象的なレベルで学問的な研究の対象として古来行われているところであり、ここでこうした学問研究と同じ抽象レベルでの検討を行うことを意図しているわけではない。そうではなく、ここでは、抽象的な理念のレベルときわめて具体的な政策レベルの中間的なレベルにおける議論の展開を意図している。従来、ともすれぱこうした中間レベルでの理念の検討が欠落しがちで、このことが、理念は理念、政策は政策というレベルの分化と両レベル間のコミュニケーションの断絶を生む一因となっているように思われる。

3 こうした観点から以下において若干の検討を行うわけだが、もちろん体系的、網羅的であることを初めから意図したわけではなく、テーマの選択の範囲も限定されたものである。また、その内容もどちらかといえば試論的なものも含まれ、今後のこの種の検討の出発点にしようという意味合いが強い。

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第2節 個人主義と集団主義


 人間は個別的動機と集団的動機の2つによって動かされており(注1)、各文化はその2つのうちいずれかを強調する傾向を持つ。あえて図式化していうならば、個別性契機を重視する顕著な例としては近代化以降の欧米文化が、集団性契機が優位を占める例としては近代化以前の日本文化があげられよう。集団主義の文化では、人々の生活の安定、向上または福祉は、相互扶助という形で行われており、日本ではそのような在来的な集団主義文化が存在していたうえに、近代産業文明との接触を通じてその中心原理である個人主義的文脈において福祉を考えるようになったため、在来の相互扶助様式との交錯が生じた。この2つの要因をどのように整理すべきかというのは大きな問題である。これについてはいくつかの考え方がありうるだろう。第1は、個人主義の徹底である。第2は、集団主義の復活である。第3は個人主義と集団主義の組合せを考えるという方法であろう。

5 歴史的にみると、西欧では近代化の過程において伝統的な集団への帰属
を基礎とする社会制度が崩壊への道をたどり、中間集団の意義は次第に薄れ、個人と国家への分極化が生じたとみなしうるであろう。この分化の過程において種々の社会的摩擦と動揺が生じたが、その過程を経て、現在普遍主義に立脚した国家による個人の福祉保障という制度が築かれているといえよう。この過程で政府活動の範囲は増大を続けてきたが、妓近、西欧諸国の一部では政府活動の過度の拡大に対する批判が聞かれるに至っている。また、一般に、先進産業社会においてその上向蜘こみられたような個人主義を推進させようとする社会的動因は今や失われているとみることもできよう。

6 日本では、急速な経済発展の中で比較的在来的な制度が保存され、かつ活用される傾向にあったと思われる。中問的な集団と個人のそれへの帰属意識は、依然として日本社会の中で西欧社会に比べはるかに重要な役割を果たしている(注2)。しかし、我が国の近代化過程で個人主義化がある程度進展したことも事実である。また、社会的流動性はきわめて高いとか、中間的な集団も外部に対しては競争的であり、業績主義による価値基準が用いられる(日本的競争)といった現象が顕著にみられ、一種の個人主義のようなメカニズムが集団主義と表裏をなしている。こうした日本社会における個人主義と集団主義との重層構造的形態は今後どのような方向をたどるであろうか。

7 今後、全般的に従来のような集団主義は次第に衰え、個人主義が次第に強まる傾向にあると思われる。その萌芽は既に世論調査の動向などから看取される。これは、個人が集団に対しあまりにも低い地位にあった状況の修正として当然のことであろう。しかし、このことは、日本がやがては西欧型の個人主義社会になると予想することではない。

8 今後日本人の模索する中核的な帰属集団としては、国家、自治体、企業、組合、地域祉会、家族などが考えられる。国家を中核的な帰属対象とする考え方は、近代国家の歴史的過程と現段階における「控え目」な性格からみてありそうにない。組織化された仕事場集団としての企業は今後もある程度重要な帰属集団であり続けるであろうが、意識の変化などによりその重要性は弱まると考えられる。家族の機能の重要性は再認識され。核家族でない形の新しい家族的結合や地域コミュニティの再確立を目指した模索が行われるかもしれない。

9 ところで、個人主義と中間的集団への帰属の組合せという形の日本的原理は、福祉との関連においてどう評価すべきであろうか。個人主義社会における福祉は、普遍主義によって律せられるといえるであろうが、中間集団への帰属という形で展開される福祉の保障は、個人主義による場合のような普遍的な原理が適用されないので、一種の特殊主義に陥ってしまうだろう。こうして、両者の間に対立関係が生じうる。例えば、企業は、西欧流に考えれば経済原理に基づく利潤追求を目的とする私的集団であるが、日本では同時に企業内において相互扶助的福祉活動を行っている。これには、福祉の水準がたまたま所属した企業ごとに大きく異なるという不合理があるので、公的社会的な福祉機能を委ねることはできず、今後次第に公的制度に移行せしめることが必要であろう。しかし、反面こうした機能のすべてを一挙に公的制度に移行せしめることも得策ではないだろう。福祉機能の一部は、企業や新しい家族の機能によって行われるといった形態も十分ありえよう。こうした意味で、個人主義の福祉原理と集団主義の福祉原理の調和をいかにして確保すべきかという問題がより具体的な福祉政策の制度や進め方の問題として生じてくるものと思われる。いずれにしても、日本的な集団主義と個人主義の新しい形態の模索は、総合的な社会政策体系の模索の重要なプロセスの一部となろう。

(注1)個別的動機とは・各々の個人が自分自身(の要求)を実現しようとすることを指し、集団的動機とは、個人が自分の属する集団に貢献しようとすることを指す。さらに深層に渕れば・前老は自分自身に生存の根拠を求める姿釧こ、後者は何らかの集団に同一性を求める姿勢につながる。

(注2)西欧と日本を含んだより広い地域についての議論に関しては梅緯氏よりのヒヤリングの記録を参照。

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第3節 自由と平等


10 自由と平等の理念は、人間を動かす基本的な契機である。自由と平等は、ともに両立しうるものとしてのみならず、必然的に結びつくものとして、フランス人権宣言やアメリカ独立宣言によって近代市民社会の主要な理念として掲げられた。しかし、この両者が両立しうるか否かにおいては。アリストテレス以来多くの疑念が表明されてきたし、今日に至っても決して解決したとはいえない。総合社会政策の遂行に当たって、いろいろな局面において自由と平等とはトレード・オフの関係に立つことが多い。したがって、現代社会においてこの2つの理念をどのように整理すべきかを検討することは有益であろう。しかし、それは決して容易ではない。自由にもまた平等にも、異なった歴史的、社会的背景に応じて種々の概念があり、自由といい平等というときいかなる内容が意味されているのかが明らかでないと、両者の関係の検討は困難に陥る。以下においては、「市民社会」における個人主義の文脈の中で自由と平等とがどのように整理されていたかということから出発して、現代に至る変化を追ってみよう。

11 自由は個人が個人の外から制約されないことを意味し、平等は個人が確立されたうえでの個人問の比較可能性を前提としているという意味において、両名はともに個人主義の文脈において定義することができ、その枠内において自由は個別性契機を、平等は集団性契機を表現しているとみることができる。具体的人間の形成する現実の社会にあっては絶対的自由はありえず、個人は完全に同質ではないため、享受能力や利用能力によって何らかの相違が生ずることは避けえないので、ともに相対的な概念とならざるをえない。

12 同一レベルで自由と平等とをともに確保Lようとすると、そこに矛盾が生ずることは明らかである。そこで、これら2つの要請を社会システムの中へどう組み込むかということが問題となる。西欧資本主義型産業社会は、これを上位の抽象的レベルにおける法システムと下位の具体的レベルにおける市場システムとの組合せという形で解決Lようとした。法システムは、「法の前の平等」という形で機会の平等を保障する。市場システムは、法の定める抽象的なルールの枠内で具体的経済的行動の「自由」を与えることが期待された。

13 この種の法と市場の重層システムの典型は、「市民社会」の理念(ある程度まで現実)であった。そこでは富と機会の分配の不平等の激化は生じないと想定されていた。すなわち、財産(いわゆる「恒産」)を持つ市民が前提され、政治システムにおける議会制デモクラシーの基礎には市民の間に共通な「教養」または文化があり、加えて、市民とは「家長」であって現在のみならず子孫を含めた長期的な配慮を秘めていることが期待されていた。つまり、「市民祉会」のシステムは「恒産」、「教養」、「家長」という3つの資格を持った「市民」の存在を前提していた。

14 しかし、資本主義の現実においては富の不平等とそれによる自由の範囲の差異が生じた。それは、市場が富の多寡に比例した「ドル(円)投票制」というシステムを持ったことに由来しており、富の差が機会の不平等をもたらし、さらに富の差を生むという悪循環を抑制するメカニズムが組み込まれていなかったためである。産業化の進展に伴い、このような古典的システムと現実との乖離はますます顕著となり、労動者という弱い個人と大法人企業という強い「個人」の存在という形での機会の不平等が顕在化し、弱さを保護し強さを抑制する法体系の導入が行われ、「私法の公法化」の現象が現われた。

15 このようにして、法のレベルで確保されていたはずの「平等」はより具体的レベルで追求されることとなった。すなわち、単に「機会の平等」を保障すれば十分であるとは考えられなくなり、その結果について具体的な措置を講ずる必要が強まった。こうして自由と平等が具体的レベルにおいて至るところで衝突するに至った。この衝突をその都度調整するために政治システムとしての議会や行政に大きな負荷がかかっているうえ、議会制そのものも基礎に遡って利害調整を行う力を持たず、システム全体が機能不全を間われることとなった。こうした過程において唯一の効果的な調停策となったものが貨幣的な分配積み増し政策であって、これが政府部門の拡大と「構造インフレ」をもたらしたが、これはこうした機能不全の一帰結である。

16 こうした状況の中で自由と平等をどのように再配置するかが重要な課題である。このような事態に対する解決策として、(1)平等要求が停止するまで具体的レベルでの平等を拡大するという方法も考えられるが、これは、自由が機能しうる領域の縮小を伴うとともに国民の活力を殺すことになる恐れがある。より妥当なのは、(2)具体的レベルでの平等を拡大するとともにその拡大に何らかの限界をおき、それを超えるレベルにおいて自由を最大限確保するような、自由と平等の仕分けのシステムを新しい形で復活すること、つまり、機会の平等と具体的行動の自由との新しい組合せ方式を検討することであろう。この場合の{機会の平等」は{市民社会」的意味での形式的な平等ではなく、具体的平等を取り入れた新しい{機会の平等」でなければならない。

17 その内容は、(1)ばらばらな個体としては弱い立場におかれやすい労働者、消費者、住民などの交渉能力の拡大、(2)強大な組織として過大な競争力をもちやすい企業の交渉能力の制限はもとより、(3)個人の責任を超えた不測の事態による機会の喪失(減少)を防ぐこと、(4)外部効果による機会の歪みを防ぐことであると考えられる。(3)は、疾病、傷害、老齢化、遺族化、失業などに対応する社会保障を指し、(4)は、公害の防除、公共投資の適切な実行、公共サービスの適切な供給を指している。

18 このような「機会の平等」のための諸措置は、全体としての体系性を持ち、ある程度安定した生活を常時確保する必要がある。こうしたミニマム水準の達成により、あたかも市民社会における個人にも似た経済的基盤を備えた個人の誕生が期待される。このような個人の確立をまって、初めて他の個人のあり方に配慮するとともに将来の個人や社会に配慮する力を持った政治主体が成熟し、議会制度と行政との円滑な運営を期待することができるであろう。これがミニマム水準を超えた面での最大限の自由のための前提となるであろう。

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第4節 社会的公正と効率


19 「公正」、「正義」などの言葉には、ニュアンスの差があり、用法も同じではないが、とりあえずほぽ同義であるとしよう。正義には「交換の正義」と「分配の正義」の2つがある(注3)。「交換の正義」は、「正または負の贈与」の発生−特に、詐欺、契約不履行、過失などによる損害の発生−を排除しようとするものである。一方、「分配の正義」は、国家や各種の集団が財、サービス、権力、権利などをメンパーに分配する場合の基準に関係している。

20 「交換の正義」と「分配の正義」とは、それぞれ適用される場面が異なり、前者は「市場社会」に適用される正義であり、後者は「組織」に適用される正義であると考えることができよう。「市場社会」では、各個人または集団が与えられたルールの体系のもとで自己の目的を追求するという「ゲーム」方式で動いており、「組織」では、個人は全体の目的のために行われる決定に従って行動する。

21 しかし、現実の社会においてはこれらが様々なレベルで混合している。例えば、今日の日本は全体としては「市場社会」であるが。その中には家族という血縁集団や企業という機能集団などの「組織」が存在する。一般に、近代国家の成立以後、市場社会はこの国家という最終的な組織によって枠をはめられることとなった。したがって、現実の社会では「交換の正義」と「分配の正義」の2つの原理が混合しているといえよう。

22 このような限定をつけたうえで、集団および社会的行為の2つの型にそれぞれ適用可能な正義の概念を検討する。「自由社会」における各種の「ゲーム」を律するのは「交換の正義」であり、そこには「等価物の交換」というルールが支配しているものと推定される。「ゲーム」における正義とは、あくまでも確立されたルールを前提としているのであって、ルールなしに個別的な行為の正しさをその都度判定しては「ゲーム」は成立しない。個別的な行為の「正−不正」はそのルールに照らして判定されるのである。

23 それでは「ゲーム」における「公正」とは何を意味するのであろうか。反則のないことを別にすれば、どの「プレイヤー」にも同一ルールが平等に適用されること、すなわち「イソノミア」(法の前での平等)が恐らく「公正」の中身と考えられるであろう。選択ないし意志決定が強制されたものでない限り、各「プレイヤー」の行為についてはルールに照らしてその「正−不正」が判定される。そして、各「プレイヤー」の自由な行為に不正がない限り、「ゲーム」の結果について「正−不正」を云々することは無意味である。

24 もちろん、「ゲーム」の結果をある観点から評価して「良い」とか「悪い」とかいうことは可能である。例えば、ロールズの「マックス・ミン原理」は最弱者の立場の改善が行われない場合を改善とは認めないであろうが、いずれにしても、「ゲーム」の結果が、「全体として」あるいは「社会にとって」、「良い」か「悪い」かを論ずることは、暗黙のうちに「組織」の視点を導入していることを意味する。また、参加する「プレイヤー」の初期条件を平等にすることこそ「社会的公正」であるという主張も存在する。これは、結局のところ「ゲーム」が「好ましからざる結果」をもたらさないようにすることであり、要するに、「ゲーム」の「公正」をその結果の「公正」の観点から問題にしているのである(例えば公正競争の確保に関するルールの設定や変更などもこの観点から行われる。)。「ゲーム」が連続して行われる以上、事前の(初期条件の)調整でも事後の(結果の)調整でも実質的には同じことである。

25 そこで「組織」の中で問題になる「分配の正義」を検討しよう。「組織」のルールは「公法的」ルールであり、メンバーと「全体」との関係を規定するものであるが、このルールの適用によって、個人は「組織」から何かを分配されたり、一定の仕方で取リ扱われたりすることとなるので、「公法的」ルールの良し悪しの問題は、直ちに各人が受け取る結果すなわち分配の良し悪しの問題となる。それでは「組織」における分配の「正しい」基準は何か、結果が問題である限り、万人を納得させうる分配の基準などはありえないかもしれない。これはもはや「正義」の問題ではなくて、「組織」の目的からすれぽどのような分配基準が「好ましい」かという問題なのである。

26 分配の公正に関する議論は古くから行われている。その流れは、大別すると功利主義的な原則に立つものと契約論的な原則に立つものとに分れるが、最近前出のロールズが、契約論的立場から、個人の自由の最大限の尊重の原理および機会均等の原理とともに提示した「マックス・ミン原理」は注目される。これは、各人がどのような立場に置かれるかを知らない場合(「無知のべ一ル」の下にある「原始状態」において)、確率論的な配慮を加えて、分配ルールに関しどのような合意に達するだろうか、との想定の下で論理的に追求されたもので、社会的な最弱者を優先するルールが合意を得ると推論されている。ロールズの理論に対しては反論もいろいろ出ており、現在なお論争が進行中である。また、この種の問題に合理的な推論がどの程度まで有効であるかという点に疑問がないわけではないが、こうした理論的検討は祉会の構成メンバーの合意形成に役立ちうるものと思われる。

27 分配問題に関しては事柄の性質上利害の対立が鋭く現われるので、社会的合意に到達することは容易ではないが、先進産業国の多くである種の社会的合意が生じつつあるように思われる。すなわち、(1)生存、安全、健康のような基礎的二一ズの優先的充足のための「二一ズに応ずる分配」の原則と、(2)それ以上の二一ズに関しての「貢献度に応ずる分配」の原則と、(3)同一の条件のケースは差別しないで同一に扱うという意味での機会の均等ないし公平さの組合せが公正な分配だとの考えが、かなり広範な社会的合意を得つつあるように思われる。事実北欧など社会政策の成熟度が進んだ国々において、社会政策における福祉給付の原則がこの3つの原則に沿う方向に総合化されつつある。

28 上記のような分配の原則は、ある意味では「機会の平等化」とも解しうるが、報酬とパーフォーマンスの乖離を認めるという意味で多少とも「結果の平等化」につながるものと思われる。その場合、経済的な効率に悪影響を及ぼすという議論は次の2つを根拠とすることが多い。第1に、報酬がパーフォーマンスから離れて平等化すれば、パーフォーマンスの節約が起こることは当然だという議論である。具体的には、租税を通ずる再分配によって平等化を進めると、富者の仕事に対する誘因を弱め、貧者を怠惰にするという議論である。これを実証することは難しいが報酬とパーフォーマンスの乖離の程度に応じ、こうした傾向が多かれ少なかれ起こりうることは否定できない。しかし、他方、平等化が低所得老の労働意欲をかえって高めたり、労働能力を向上させたり、また労使紛争を減少させたりする結果、効率が向上するとも考えられる。また、よリ一般的に社会的統合に対する影響によって他の種々の政策の施行が容易になるなどの広い社会的政治的効率が高まリ、その中で経済効率が高まる可能性も無視できない。第2は、貯蓄、投資に対する悪影響である。これについては、貯蓄が過剰で有効需要の不足がある場合は所得平等化はかえって有効需要増大効果があるというケインズ的反論があるし、貯蓄が不足で有効需要過大な場合には政府貯蓄を増大させるなどの手段で対応することが可能と考えられる。したがって、平等化の促進が経済効率に不利な影響をもたらすと一義的に主張することはできないと思われる。ただし、平等化のための課税の捕捉に不平等があると、かえって不平等感を高め労働意欲も減退させる恐れがあるので十分注意すべきであろう。

29 以上のように、社会的公正の意味は多義的であり、その意味するところを十分に明らかにすることは容易ではない。また、それが部分的にせよ実現されたときに生ずる他の部面への影響も必ずしも一義的に断定できない。こうしたあいまい性を持った言葉が一種のスローガン化して、政府の統制や指導を強めたり、政府の収入一支出がむやみに拡大したりするための「トロイの木馬」(注4)になる危険に対しては十分警戒した方がよい。

(注3)アリストテレスは、「ニコマコス倫理学」において正義の形式的定義と実質的定義を与えている。形式的定義は「適法」であることであるとされ、実質的定義としては「等しい」(イソン)と「比例的」(アナロゴン)があけられている。交換の正義(commutative justice)はイソン、分配の正義(distributive justice)はアナロゴンの原理に基づく。

(注4)紀元前12世紀頃のトロイ戦役において、トロイの抵抗に手を焼いたギリシヤは一計を案じ、大きな木馬を作って兵士達をこの中に隠し、この木馬を崇拝するとトロイは不敗になるとの予言を信じさせてこれをトロイ城内にひき入れさせたため、さしものトロイも陥落してしまった(ホメロス「イリアス」)。この故事から転じて、すばらしいと思った贈物がかえって災いの種になるという意味に「トロイの木馬」という言葉が用いられる。

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第5節ソーシャル・ミニマムと活力ある社会


30 以上において検討した個人主義と集団主義、自由と平等、能力原則と必要原則などの矛盾と緊張を含んだ理念をどのように調和せしめたらよいのであろうか。この問題に対する解答が、第3節において示唆したようなミニマム水準設定の考え方である(注5)。すなわち、これにより国民に最低限度の必要を保障し、同時に上記のような対立する理念の間に一応の境界線を引くのである。このようなミニマム水準設定の根拠は、上記の対立概念のうち、集団主義、平等、必要原則およびそれと密接に関係する連帯主義の系列に属する原理である。しかし、同時にこの原理による最低限を設けることにより、それ以外の面では、もう1つの原理系列、すなわち個人主義、自由、能力主義およびそれと密接に関係する業績主義が最大限に生かされる条件が作り出されることが期待されるのである。

31 また、このような最低限は、国民の合意という観点からみれば、少なくともその水準までは国民の大多数がミニマム水準として認めるという意味でのミニマムの合意が成立するような最低限である。また、そのことは、ロールズ的な世界では誰もがこの水準以下に落ち込むのは欲しないことで合意するような最低限であるとも解しえよう。さらに、これを満たさないと社会の統合に問題が生ずるという体制保持的な意味を持つ場合もあろう。または、これを満たすことにより、社会の統合が強化されて社会全般の機能が高まることが期待されるという積極的な意味を持つ場合もあろう。

32 最低限ということは、生物学的な生存の保障という意味ではなく、日本国憲法でも述べられているように、文化的最低限でもある。したがって、それは一定の幅のある概念であり、その基準をどのように設定するかは困難な問題である。それは、社会的な存在である人間が各時代において最低限の必要を満たす水準でなければならない。したがって、それは時代とともに変わる相対的なものである。また、その対象範囲も単に狭い個人の所得水準という意味にとどまらず、社会的資産の蓄積、最低限度の自然環境、生活環境、教育の機会をはじめ公共サービスヘのアクセシビリティ、祉会的威信、文化の享受、自已実現などを包含する概念に拡大されなけれはならない。その基準は、また、当然財政の状態にも無関係ではありえないし、さらに、このミニマム水準のうち現世代のための消費となる部分は、将来世代のための蓄積と競合関係に立つので、将来世代に対する選好率すなわち貯蓄率と無関係に決めるわけにはいかないだろう。さらに視野を広げれば、我が国を含む先進諸国と開発途上国との関係をどのように考えていくかということとも密接な関係がある。

33 このように考えると、ミニマム水準は個人の必要の充足に関する最低限の水準であると同時に、前述したような社会システムの機能要件充足に関する最低限の水準であると考えるのが適当であろう(注6)。この場合、個人および社会の双方について、より基礎的な必要充足の最低限(例えば個人については生活保護基準、祉会については下水道のような公共財の供給に関する最低水準など)を設定することは比較的容易に行いえようが、より高次な必要になると最低限の設定の困難が増すだろう。

34 この最低限を満たすについて政府公共部門の果たすべき役割であるが、ミニマム水準の充足はすべて政府公共部門の責任で行うという考え方は、官僚化、財政負担の過度の膨張とその硬直化の危険をはらむと同時に、個人の賓任と自発性、ひいては祉会の活力にマイナスの効果をもたらす危険がある。ミニマム部分のうち、より基礎的な部分は政府の責任度が強いとしても、その他の部分は国民の合意によって、その自発性において達成すぺきものであろう。また、逆にミニマムを超える部分は、原則としては個人と市場に委ねる性格が強まるが、とはいってもすべて個人と市場に委ねれぽよいということにもならないことは当然である。いかに個人が合理的に行動しても社会的合理性が自動的に確保できないような局面(公害防止とか公共財の提供など)には、政府が果たすべき固有の役割が残るであろう。

35 もともと我が国の祉会政策は国家責任論の色彩が強かった。しかし、貧乏や生活困窮が中心であったとき有効に機能した国家責任論も、予防や治療が中心となってくると、現に限界が出てきている。さらに、国家責任論は。家庭、地域社会、企業なζの国と個人との間の中間項や個人を無視しがちであって、これらに正当な評価を与え、その作用を促進するうえでマイナスの効果を生むようになった。予防や治療のうえではこの中間項の機能が特に重要であり、今後の社会政策は、これらに正当な位置を与え、正しい機能をよりよく発揮できるようにしなけれぼならない。すなわち、このミニマム水準の達成は、政府公共部門による基礎的な支持のうえに立って、あらゆるレベルの社会組織とその中での個人の自発性と責任において達成されるべきものである。

36 以上述べたように、ここで取り上げた最低限は、個人にとっての時間と空間を通ずる生活に関する最低限であるのみならず、社会システムのパーフォーマンスについての最低限であり、単に所得に関してだけでなく、社会的、文化的要素についての最低限でもあり、また、国家の責任においてのみならず、社会のあらゆるレベルにおける自発性によって確保される最低限である。こうした意味における最低限の概念を社会的最低限またはソーシャル・ミニマムと呼ぶのが適当であろう。これの確立は、総合社会政策または社会計画にとっての1つの有力な理念たりうるものと思われる。

(注5)このようなミニマム水準の思想はウェッブ夫妻によるナショナル・ミニマムの思想に由来している。彼らは、労働者を生産者および市民として実力を有する状態に維持させるような賃金、労働時間および労働環境を定めることの必要性を説いた(シドニーおよびベアトリス・ウェッブ「産業民主主義」1897)。この思想は第二次大戦直後の「ベバリッジ報告」にも受け継がれている。また。日本国憲法第25条は。国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があると述べており、これを受けて、昭和25年に社会保障制度審議会はベバリッジ報告の影響を受けた「社会保障制度に関する報告」を行った。この勧告の考え方は生活保護法や最低賃金制度などに生かされている。さらに、この流れを受けて、昭和45年、国民生活審議会は。「人間環境への指針」と題する勧告においてナショナル・ミニマム確立の必要性を説いた。

(注6)最低限のうち、祉会的な平均値や分布、アクセシビリティで捉えられるものは,「社会指標」の構成要素が最低限満たすべき水準として近似的に示すことができよう。「祉会指標」は社会状態を平均値、分布、アクヒシビリティなどから把握しようとするものである。たたし、考え方は別として、実際に作成された「社会指標」では平均値が中心となっていることは否定できない。したがって、社会の中の個人の状態をよりよく把握するために、分布、アクヒシビリティ面を充実させるとともに、地域または生活圏ごとの「社会指標」の作成が必要であり、現にそうした方向で作業や検討が行われている。しかし、かりに分布やアクセシビリティが地域または生活圏ごとに把握され。そうした指標がある社会的な要件を満たしたとしても、それだけでは個人についての要件が満たされているとは限らない。したがって、より基礎的な要件については、それが各個人についてもれなく満たされるための制度と政策が整備されることが必要であることはいうまでもない。


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(Feb.10,2016Rev.)