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参考 地域創りの意思決定
第2節 行動原理 ―正しく生きる―
第4項 規範と行動

1.社会規範と行動

激動の時代に求められる規範と行動
 激動と混迷の時代と呼ばれるように社会が大きく変わりつつある。
 地域社会のあり方を考える場合、社会変化の方向を受け身的に捉えるばかりでなく、主体的に方向性を求めることも必要である。この際、アノミー(無規範)状態での構想はあり得ず、どのような規範が背景に置かれるのか探っておく必要があろう。
 また、基本的には、社会を構成する各自の行動の中から新しい社会が生まれてくると考えられるが、個々人のどのような行動を基礎に置くのかについても視点が必要であろう。

規範

両極に広がる社会変動の理解
 社会の変動に対しては両極の考え方があろう。
 まず、既存の諸規範は個人の束縛であり、それは常に乗り越えるべきものとする考え方がある。この場合でも、新たな規範は姿を変えた束縛となるとして、ほとんど社会像を描かない無政府的な(アナーキーな)立場から、新たな社会像を積極的に描く革新左翼としての立場までの幅がある。ただし、深い思考を持ち合わせず、無限定に規範から逸脱する行動を取る者が大多数かもしれない。
 これに対して、既存の社会が持つ法・規範の体系は、文化そのものであり、それを安易に放棄しても新たな望ましい社会ができるわけでないとする立場がある。この場合でも、頑なな旧守の立場から、是々非々で漸進的改革を許容していく立場まであろう。ただし、自らの既得権益の擁護のみを主張する者が大多数かもしれない。
 無限定な規範からの逸脱や自らの既得権益の擁護は別としても、上述のような考え方の広がりについて、何が正しいという事前的な結論はない。個人の行動においても、社会全体のあり方を考えるにあたっても、現実には、この広がりの中で、均衡ある点を模索していかざるを得ない。

個々人に求められる整合性
 個々人に自立し責任ある(自律した)倫理観を求めることが必要としても、その内容を具体的に述べようとすると道学者になりかねない。
 無反省な評論家を別とすれば、自らの立場を表明する際には、その規範に基づく行動が何らかの形で社会組織全体として整合性のあるものとなっていることが期待される。少なくとも、この程度の倫理観を持った意思表明でなければ、それは、単に無責任な言説か、あるいはともかく現在の社会が崩壊すればいいとする革命の論理か、現実の社会情勢の変化さえ受け入れようとしない反動の論理である。整合性を持ち自己矛盾がないよう配慮された言説でなければ、互いに議論する場が成立しない。
 なお、こうした議論において、今日、個々人にとって特に課題と考えられるのは、多様な組織の中で、全体社会のしかるべきあり方と矛盾する場合にどう行動するかという倫理であろう。これについては、各自の責任で均衡を保たざるを得ない。組織の隠れ蓑は自分のみの論理に過ぎない。また例え法令に沿う行動であっても、それで許容される訳ではない。法令の下で思考を停止するのは、社会のあり方を議論する姿勢ではない。


主体的思考
 このような建前の社会を維持するためには、各人は社会のあり方を真摯に考え、自らの行動を律していくことが前提である。しかし、これまでのところ、我が国では、知識人(?)を含めてこのような姿勢は形成されてこなかった。そして、社会のあり方を一部の行政官僚に委ねてきた傾向がある。米本昌平は、これを「構造化されたパターナリズム」と呼んでいる。
 多くの人が、表面的には自律を述べても、現実にはこの傘のもとと考えられる言動が多い。例えば、社会計画の表現でも「◎◎◎できる社会」はよく目にするが、「◎◎◎する社会」というのは少ないのではなかろうか。


社会を疑う
 以上のような視点から、今日の社会システムを一度疑って見ることが必要であろう。
 公共財の整備等は、各自の整合性のある主張を背景に置いた社会の総意を前提として行うのでなければ、資源がいくらあっても足りない。
 必要なセフティネットを共同して形成することは重要であるが、皆がネットに乗ろうとし誰も支えなければ、ネットは落ちるのが当然である。例えば、介護保険は年金的なもの(原則として受けることを生活設計に組み込む)か生活保護的なもの(原則として回避するよう行動するがやむを得ない状況に陥った場合は受ける)か。性格が非常に曖昧である。しかし、後者であるはずで、自立できる社会の形成も同時に重要なことが忘れられている。
 セフティネットは次善の策であって、それを必要とすることが少ない仕組み、格差が生じにくい仕組みの形成こそ重要なことを忘れてはいけない。


行動

各自の行動態様と社会
エチオーニ
 制御能力
低い高い
合意
形成
能力
低い受動的社会(passive)
多くの発展途上国
過剰管理社会(overmanaged)
全体主義的国家
高い漂流社会(drifting)
資本主義的民主的社会
能動的社会(active)
脱近代社会以後の未来社会
 内面に整合性のある倫理規範を持っていても、それだけで各自にとって望ましい社会が形成されていく訳ではない。
 もはや我が国は、多くの発展途上国のように社会の運営を少数の正統性のない為政者に委ねる受動的社会(passive)の時代ではない。しかし、我が国では、つい最近まで行政官僚集団に多くを委ねあまり疑ってこなかった。昨今は、この反動で、専門家集団としての行政官僚の見識が極端に蔑ろにされている。
 また、全体主義的国家のように計画的に経済社会を構築していくという発想(コンストラクショニズム)でも過剰管理社会(overmanaged)に陥るだけで、共産主義の崩壊で信頼されなくなっている。
 かといって資本主義的民主的社会の中で、経済の論理のみの漂流社会(drifting)にも身を任せれない。これは現在我が国が陥りそうになっている社会である。

能動的行動
 ここまで、議論が展開すると、脱近代社会以後の未来社会では、公論を興し、皆で騒ぎながら作っていく能動的社会(active)に行き着く。これは社会学者エチオーニの主張するところである。
 しかし、この方法で、安定した社会を期待するのは容易ではない。多様な議論が展開され世論が右往左往する中で、議論の波上をサーフィンしていく社会が避けられない。このような社会は気の休まることのない不安定な社会である。このため、易きに付こうとする世論が、管理社会や漂流社会に戻ろうとする可能性も強い。
 単に、取り敢えず納得できる社会ということに過ぎないであろう。しかし、昨今の社会論調はこの方向に向かっていると考えられよう。ただし、社会の多くの組織がこの方向を素直に受け入れようとしている訳ではない。
 当面は、新たな社会作りを進めるための枠組み作りの議論を続けなければならないようである。また、社会を構成する各自には、面倒でも能動的行動が求められている。



21世紀の生き様

共生社会
 以上、中立的立場を装いつつ、倫理規範と行動原理について述べたが、具体的な方向としては、何を目指すのか。
 現下の課題としては、経済的行動のみを主眼に行動するのか、それとも社会的行動も視野にいれて行動するのかということであろう。
 現在、自由競争の題目の下で、拝金主義が跋扈し、弱肉強食の競争社会が演じられている。その不安定性、極端な個人間の格差の発生、さらにはセフティーネットの整備の忘却など多くの問題があり、我が国は、危険な社会へ踏み込むのか否かの瀬戸際に立っている。
 これに対して、効率的経済社会とは別に新しい繋がりが提唱されてもいる。いわゆる「共生社会」の主張である。
 さらに、具体的な内容を込めれば、イリイチの言う「コンビィビィアリティ(Conviviarity;共にいきいきと生活すること)」が求められているのであろう。
 個人としては、タフに生きていかなければならないが、優しさがなければ生きていく価値がないと捉えられ始めているのであろう。

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(Feb.10,2016Rev./Apr.09,2000Orig.)