公共事業等の適正化が困難な理由
多様な関係者それぞれの行動は、それぞれの利害得失を基礎として判断されている。これは、全体としての適正化に背く不適切な判断かもしれないが、法律違反等を含まない限り各自の行動とし、即座に否定できるものではない。 むしろ各関係者の行動がこうした性向を持つことを前提として、なおかつ全体として適切な方向が模索されていくような社会制度を構築していくことが求められていると考えるべきであろう。 以下では、各関係者の性向と適切な判断を促していく仕組みについて概観する。 地域住民 地方行政施策全体としての望ましいあり方を最終的に判断するのは、建前として地域住民である。 しかし、地域住民一人ひとりが、地域についての包括的な視点を持つことができるかは、難題である。 道路など身近な施設・設備の充実や自ら所有する農地の高額収用などには大いに賛成するであろうが、必要な資金を捻出するための増税には反対しよう。ましてや、例えば食糧安全保障の見地から農地の転用を自制する、あるいは地球温暖化防止の見地から道路の拡充に反対するなどといった発想などは求め難い。 このような課題に対処していくためには、地域の人たちが、身近で日常的に包括的な情報に触れるようにしていくことが必要であろう。 首長 地方行政施策全体としての望ましいあり方について、地域の住民から委任を受けて判断していくのは、建前として首長である。 しかし、首長は、多様なステークホルダー(利害関係者)に囲まれ、大所高所からの主張が困難である。無理をすれば首長に選ばれない仕掛けとなっている。注1) この点については、特定のステークホルダー以外の人達が首長を支える仕掛けを作っていくことが必要であろう。 議会議員 議会議員も首長と似た立場にある。むしろ、選挙で支援してくれる地域の人々やステークホルダーの代弁者であることが求められているとさえいえる。 こうした限界を超えていくためには、議会での議論を透明にし、外部からも疑問を投げかけていくことが必要であろう。 公務員 公務員は、身分が保障されており、そのキャリアを通じて、地域の望ましいあり方を考え続けていくには最も適切な場にいる。 しかし、自発的に地域を考え続けるよう十分に動機付けられているかは、行政組織のあり方にかかっている。 多くの場合、仕事を首尾よくこなすことは求められるが、あるべき方向を考えることは求められない。さらに、一定の組織の中では、その組織に属する人の利得が求められ、縦割り組織の中では、総合的な地域のあり方の判断は蔑ろにされがちである。 このため、首長は、行政組織の経営において、スタッフがよりよき地域づくりを自ら考えその実現を目指すことにインセンティブを持つよう仕組む必要がある。首長が判断すれば十分という見方もあろうが、地域の実態を理解し、地域のあり方を考え続けることができるのは公務員であろう。その支援を受けて首長が判断することこそ望ましい。また、組織を横断的に考える官房的企画組織が機能していく必要がある。 学識経験者 地方行政施策全体としての望ましいあり方の判断については、多様な学識経験者の意見も求められる。このうちステークホルダーは別として、教育研究機関等の学識経験者には中立的な判断が期待されている。 しかし、判断するための深い教養を持ち合わせているとしても、検討事項が、各自の関心事、研究対象と重なっている訳ではなく、付け刃の意見となりがちである。また、特定分野の専門家であれば、ステークホルダーに近い立場の判断となりがちである。 このため、地域についての研究を助長することを検討すべきかもしれない。例えば、中立的なシンクタンクを設置することも考えるべきかもしれない。 ジャーナリズム(マスコミ) ジャーナリズムは、地域社会の論調を牽引していく可能性を持っている。 しかし、関連事業が多様化・大規模化しているマスコミとして存立するジャーナリズムにとっては、読者の求めるものと地域づくりを真摯に考える方向と整合性が取れるかの課題があろう。多様な課題について率直に書けば、個別事業の展開を熱望するステークホルダーとしての地域住民から反発を受けるだろうが、大所高所からの激励等は期待し難い。 マスコミといえども、積極的に発言するには、地域社会での論調が何らかの形でしかるべき方向に動いていることが条件となっている。 各ステークホルダー 行政の展開する多様な事業には多様なステークホルダーが存在し、それぞれ強く自己主張することは当然予想される。これに対して、その他のいわば一般住民が強く賛否を唱えることは期待し難い。 このため、行政の施策展開については、事実に基づいて真摯な議論が透明に展開されていくよう仕組む必要があろう。現在パブリックコメントが制度化されているが、行政は詳細な基礎情報を提供し、質問には丁寧に回答し、真摯にな議論が透明に展開されるよう仕組みを構築する必要があろう。 国等 国の補助金や交付税の制度は、地域の行政のあり方を大きく規制している。国にあっては、地方以上に縦割りの行政機構であり、その施策は多様な行政施策の総合的なバランスを保障したものではない。しかし、地域が個別的に施策に対する不満を述べれば、それに関連する資金の流入が停止されるだけである。地域は、こうした国の資金の流入を前提として施策のあり方を判断しており、自ずと歪んだ施策を強制させられている。 公共圏 以上のように、地域施策の関係者それぞれには、それぞれなりの判断のバイアスがあり、実際には、それぞれの判断が調整され収斂する、一種のナッシュ均衡注2)のもとで施策が展開されていると理解されよう。しかし、この均衡点が、より包括的な視点から見て最適なものだという保障はなく、より望ましい位置に移行するよう上述のそれぞれの工夫が求められる。 さらには、地域の望ましいあり方について理解を深めていく必要があり、志のある地域住民がボランタリィに参加して議論する、いわゆる公共圏注3)の形成が必要なのではなかろうか。こうした場での議論があってこそ、それを背景に、各関係者それぞれが襟を正し、姿勢が矯正されていくことが期待されよう。 具体的には、インターネットのブログなどに期待できるかもしれない。しかし、これまでの情報化の経緯から見て否定的な見解を持つ人も多い。 結局は、地域の住民が、十分に知的な行動を取る感覚を持っているかどうかに懸かっているのだろう。 この最後の記述は、最初の地域住民についての記述と矛盾するが、一定の見識ある市民<1/A>が、望ましい地域づくりを指向する多くの住民に支持されつつ地域の意識を牽引していくことを想定しているものである注4)。 注1.) ブキャナンは、不況対策としての公共事業の展開などケインズ政策の有効性に政治経済学的な立場から疑問を呈している。ケインズは、経済政策が少数の賢人グループによって決定されるとするハーベイ・ロードの前提に立っているが、現実には、投票最大化を念頭においた政治家によって決定されている。このため、公共サービスの提供は歓迎されても、歳出削減や増税は歓迎されないという政策の非対象性を持ち、長期的・包括的な最適の視点は確保されない。 注2.) ナッシュ均衡とは、ゲーム論での用語であり、他のプレーヤーの戦略を所与とした場合、どのプレーヤーも自分の戦略の変更により、一層高い利得を得ることはできず、結果としてどのプレーヤーも戦略を変更する誘因を持たない状態。 注3.) 公共圏(Offentlichkeit)とは、J.ハーバーマス等によって使われる概念であり、人間生活の中で、制度的な領域と私的な空間の間に介在する領域として、他人や社会と相互に関わりあいを持つ時空間のこと。日本語の「公共圏」は花田達朗氏による。このような公共圏の形成の可能性については、疑問視する人も多いが、小生自身は、そこに期待する他に方法が見当たらないという立場である。 注4.) C.ランドリーやR.フロリダのいう「創造都市」は、こうした人たちが活き活きと活動することによって魅力を増していくと考えられているようである。 関連項目に戻る (Dec.13,2014Rev./Sep.03,2005.Orig.) |