3.地域社会創りの担い手

―個人的体験から―

1.団塊の世代の夢
 現時点で顧みれば、私も属する団塊の世代が社会人となった頃(1970年前後)は、我が国の高度経済成長が終焉を迎えた時期であった。
 そして団塊の世代は、新しい社会体制を築いていく役割を担っていたはずだが、殆ど役割を果たさず、今、多くは退職し、年金受給世代となりつつある。今後さらに介護保険サービスを受けるなど、社会に多大の負担を掛けることとなる。どうも社会の進路変更に無為無策のまま、逃げ切ることになりそうだが、本当に逃げ切ることができるのだろうか。
 子育ても終了し、住まいも確保し、若干の年金で暮らしていけるのであれば、その中での自由を大いに活かし、それぞれの立場で、新しい地域社会を創っていく活動がいろいろとできるのではなかろうか。若い人の邪魔をしないことを前提に、そんな生活を楽しみたい。


2.団塊の世代の半生記
(1)高度経済成長の終焉
 戦後の復興から、「追いつき追い越せの」の標語の下での高度経済成長が一段落したのは、1970年前後であった。この頃は、1965年の景気の谷から息の長い経済成長が続き、一見、景気循環をも克服したかのように思われたが、一方で、環境問題(公害問題)、都市問題など多様な課題が噴出していた。これに対して、我が国がここまで来た英知で、新たな社会を創っていこうと真剣に考える動きがあった。「新全国総合開発計画(1969年)」、「日本列島改造論(1972年)」はともかくとして、三木内閣では、「生涯設計計画(1974年)」を策定しようとしており、これに対して、公明党は「福祉社会トータルプラン(1976年)」策定するなど、政党を含め多くの人・組織が、新たな社会を模索した。国際的には「成長の限界(1972年)」といった警告もあった。

 こうした流れの中で、私自身は、大学で計画の科学(社会工学)を学び、国の計画政策を担いたいと考え経済企画庁に入った。実際に担当した仕事は、経済白書、経済協力、厚生省へ出向しての社会福祉施設整備、薬務経済施策、経済企画庁に戻っての国民生活政策などであった。国民生活政策の仕事の中では、「総合社会政策を求めて 福祉社会への論理(1977年)」策定などにも加わった。

(2)経済体制の転換
 遡るが、経済白書担当課での2年目(1971年)の8月には、ニクソンショックがあり、我が国を囲む経済環境は大きく変わり始めた。さらに、1973年、1979年にはオイルショックがあり、これに追い打ちを掛けた。国民一丸となって努力した結果、経済は中成長時代に移行したが、それなりの成果を収め、「ジャパン・アズ・ナンバーワン(1979年)」などと称賛された。しかし、輸出拡大に大きく依存したため、プラザ合意(1985年)といったアメリカからの要請もあり、我が国経済は、内需志向に舵を切られた。結果として、バブル経済に突入していく。
 この間には、我が国経済の立て直しのためとして、列島改造ブームが起こされ、開発計画のための国土庁設置などもあった。こうした中で、1970年前後に模索された経済構造の転換の必要性は忘れ去られた。こうした流れの趣旨は、我が国の様々な社会基盤施設の整備は、欧米に遅れて進められたため、高度経済終了期に至っても、まだまだ不十分と説明されていた。しかし、第三次全国総合開発計画(1977年)では、定住圏構想を提起しており、これは1970年代には我が国全体として基盤施設の整備が概成していた証と言えたのではなかろうか。そして、国が主導して、統一的な開発を進める時代は過ぎ去っていた。ただし、こうした、国から各地へ資金を流す開発投資が引き続き何十年も続けられ、今日の財政難に至っている。地方分権についても、国(国会、中央政府)には、積極的に展開する姿勢がない。

 私自身は、このように国による長期の経済計画や国土開発計画の意味が曖昧になる中で、また、厚生省での社会福祉施策では現場の人の顔が見えない思いも抱き、仕事の場を富山県に移させていただいた。
 富山県では、様々な計画策定に携わった。「モデル定住圏計画(1980年)」に始まり、知事の交代に伴う「富山県民総合計画(1983年)」、さらに「テクノポリス計画(1984年)」、「商業振興計画(クリエイティブ・マートとやま)(1989年)」等々。また、「とやま21世紀研究会(1985〜1988年)」といった庁内若手の研究会の取りまとめ役なども務めた。
 このうちテクノポリス計画では、国による制度的枠組みの検討時点から一定の参画ができ地域の実情を紹介することによって、地域なりのものとなりえた。しかし、その他の多くの計画等では、地域なりの発想をしても、国の財政的支援がなければ地域としての事業効率が極めて低いものとなってしまい提案の実現が難しく、忸怩たる思いであった。逆に、基盤施設がある程度充実してきても、国からの支援がある事業については積極的な整備が進められてきた。このような地域なりの優先順位、費用便益計算を顧みない状況は、1980年代初めの「富山県民総合計画」の策定時に既に散見されている。


(3)漂流の時代
 バブル経済崩壊以降の我が国の政治経済は漂流を続けている。一旦は景気浮揚のためとして財政支出を増やすが、財政的限界から削減せざるを得ない状況が続いている。そして'00年代には、公共事業投資は大幅に低下した。一方、情報技術の革新・浸透の中で、経済社会システムの在り方が大きく変わってきている。また、中国を始めとした数多くの発展途上国の離陸があり、経済活動は国際社会の中での厳しい競争に立たされている。こうした流れの中で、各種の規制緩和を主張する新自由主義的施策が展開され、雇用規制の緩和などにより、厳しい所得格差などが生じている。また、金融の暴走等による経済的混乱ももたらされている。
 行政においては、分権の時代の主張がなされ、国と地方のお金の流れを変える三位一体の改革や市町村合併などが進められたが、期待された効果はもたらされていない。
 企業の経済活動は、ひたすら再活性化を目指し、雇用への配慮は忘れ、所得資産格差の拡大、生活の崩壊を省みていない。行政は財政危機の中で課題への対応が困難になっている。
 また、地球温暖化への国としての責務も蔑ろにしている。高齢化、人口減少の中で、さらに多くの混乱が始まりつつあるが、手をこまねいているばかりである。
 こうした中で、政権交代もあり、一旦は、大きく舵を切ろうとしたが準備不足で、これまでの道に戻ろうとしている。

 私自身は、県からの出向の身分で、北陸経済研究所において富山の在り方について学び続けてきた。'90年代半ばにインターネットが出現し、自らの学びの成果を整理していくためHTMLファイルを活用し、1996年からは「富山を考えるヒント」としてWebサイトに掲載し始めた。さらに、富山大学極東地域研究センター、日本海学推進機構等で学び続け、さらに2007年には県を退職し富山国際大学に席を頂いて、発信し続けてきた。産業政策、福祉政策、土地利用計画、基盤施設整備等々、県づくり全般について、気付いたことを整理してきており、それなりの閲覧者は得てきているが、社会は思うように変わっている訳ではない。


3.市民による地域創り ―市民の時代―
 これまでの地域創りの考え方はどうも時代の流れと齟齬を持ち始めているようだ。
 前近代社会では、人々は、家族や地域社会の繋がりの中で生きてきた。しかし、近代化の過程でこの繋がりが次第に崩壊する。各種の社会を前近代と近代を区分する類型でも、この繋がりを否定的に捉えられる傾向がある。特に戦後の日本では、戦中の翼賛体制の基礎となっていた町内会が否定されたこともある。また、都市化の流れの中で都市は人を自由にするとして、繋がりからの解放を積極的に評価したこともある。そして、従来、家族や地域社会が持っていた生活していくために必要な諸機能を企業あるいは政府が提供する財サービスに次第に求めるようになっていった。つまり政府に権力を与えその指示の下で問題を解決していくヒエラルキーソリューション、あるいは、資本主義の市場メカニズムで問題解決を図っていくマーケットソリューションに専ら依存するようになってきた。
 しかし、上述のように政府の財政的限界、厳しい経済環境の中での企業の収益維持のため、生活が十分に支えられない側面がてできた。ここで再度、地域創りを自らの手に戻す必要があるのではなかろうか。つまりコミュニティーソリューションを見直す必要がありそうだ。ただし、かつてのような地縁社会で画一的行動を求め異質を排除するものでなく、多様性を認めつつ包摂していく、新しい在り方を工夫していく必要がある。

(1)地域創りの方向を考える
 地方の望ましいあり方を最終的に判断するのは、建前として地域住民である。
 しかし、地域住民一人ひとりが、地域についての包括的な視点を持つことができるかは、難題である。選挙における投票など民主主義の諸制度には、一人ひとりの市民が社会全体のことを知っているという前提がある。各人は、諸般のことがらについて、それぞれの専門家ほどではないが、それなりの基本的知識を持ち、また、それを知ろうとする意欲と能力をもっていることが求められている。ただ、現下の情勢では、見識ある市民(公衆)であろうとする者は限られがちであり、しろうとが世論を形成していることは否めないであろう。こうした社会では、「見識ある市民」を育てる場が求められるが、それがコミュニティの役割であり、また、教育機関の役割であろう。
 さらに、個々人が、個人的立場を離れ、地域社会からそしてグローバルな世界全体の見地から、望ましい判断をするかどうかにも課題がある。道路など身近な施設・設備の充実や自ら所有する農地の高額収用などには大いに賛成するであろうが、必要な資金を捻出するための増税には反対しよう。ましてや、例えば食糧安全保障の見地から農地の転用を自制する、あるいは地球温暖化防止の見地から道路の拡充に反対するなどといった発想などは求め難い。
  ⇒「公共に対する個々人の姿勢」詳述
 こうした問題を解決していくためには志のある地域住民がボランタリィに参加して議論する場、いわゆる公共圏の形成が必要なのではなかろうか。こうした場での議論があってこそ、それを背景に、各人それぞれが襟を正し、発想が社会全体として整合性のあるものに矯正されていくことが期待されよう。こうした議論を経て、地域なりの地域創りのための共通認識を賛否両論があることを含めて形成していくことができよう。


 私のこのWeb掲載内容が、こうした共通認識の形成の一助となればと幸いである。

(2)地域創りの行動を起こす
 市民の手による地域創りとは、地域なりの一定の共通認識のもとで、各自各組織が多様な活動を続け、その中で結果として創造されていくものであろう。
 その基礎は、多様な活動の中で、人と人との多様な繋がりが形成されていることであろう。こうした繋がりについてはソーシャルキャピタル(社会関係資本)として多くの人が提唱してきているが、近年ではR.パットナムの実証的研究から再評価する動きが出てきている。人と人との多様な繋がりがある社会が、多様な社会の課題に対応していける足腰の強い地域社会となっているという認識である。我が国では、阪神淡路大震災(1995年)に際して、多くのボランタリィな活動が功を奏したことを受けて、NPOを法人化する制度が設けられ(1998年)、法人設立の気運が盛り上がった。また、東日本大震災(2011年)に際しても、絆の大切さが再確認された。
 ただし、NPOの活性化に行政が旗を振ったり、介護保険負担の軽減のためにノーマライゼーションと称して家族や地域の活動を求めたりすると、行政の下請けとして活動が制度化され、それに携わることに喜びが感じれなくなってしまう。同じ活動であってもボランタリィな活動であってこそ価値が見出せる。多様な私的な活動の中で自ずと築かれていく多様な繋がりこそ大切であろう。近年、ワークライフバランスの主張があるが、こうした活動ができるゆとりを持てることが求められているのであろう。しかし、今日の厳しい経済社会の中で、このようなゆとりを持つことは容易ではない。
 しかし、退職高齢者こそワークライフバランスを取り戻す、というよりこれまでのワークに偏重した生活からライフに偏重した生活に移行し人生全体の中でバランスを取っていくことができるのではなかろうか。若干ではあっても年金の受給権が担保されている中で、新しい生活を大いに楽しむことが期待され、金銭的ではない豊かさを体現していくことができるのではなかろうか。

 私自身もこれまで、ワークライフバランスを全く欠いた生活をしてきた。非常勤の仕事は若干残すが、新しい生活の可能性に直面してワクワクしているところである。これまでの団塊の世代の無策を償うことができればと考えている。



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(Jan.14,2014)