138億年のメッセージ最近、ゴーギャンの絵『我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか』をよく見かける。近年、宇宙開闢以来138億年の経過がかなり見えるようになってきた(最近では127億2千万年とされているようだ)。そして、ヒト個人の位置付けもかなり理解できるようになってきた。多くの人によりこの138億年の歴史書が出版されてきている。これらは、ゴーギャンの絵と重なる意図を持ったものであろう。自らの出自、自らの在り様、自らの行く末を探ることは興味深い。 私がここで138億年の歴史を語る必要はないだろうし、また能力もない。 しかし、全ての人に高校卒業前の頃には、138億年全史をおさらいとして学んで欲しいものだ。我々が生きていくために極めて重要な教養である。進学のための勉強にも優先するものであろう。 以下に、私が興味深く受け取っている138億年からのメッセージを並べてみたい。 ただし、事実誤認が多いと思われるので、自らのものとして受け入れるには、他の文献等を参考にして、内容を確認して頂きたい。 (人類誕生まで) 【素粒子の時代】 ・宇宙の誕生 今から138億年前、何かの揺らぎから一度に拡大(インフレーション)しエネルギーが詰まった時空間が生まれた。さらに膨張(ビッグバン)する中で温度が低下し、エネルギーの物質化、対消滅によるエネルギー化を繰り返しながら結果として現在の物質を構成する素粒子が残った。現在の標準モデルでは素粒子は力を伝えるものも含めて17種類あるが、まだダークマター、ダークエネルギーといった未知の物もあるらしい。 「揺らぎ」からエネルギーの詰まった時空間が生まれたと説明されても凡人には理解できるわけでない。また、3次元でモノを把握している我々にとって、3次元では際限がなく大きさを言い表すことができない宇宙というイメージを持つことも難しい。しかし、このことを今日の科学知識の標準モデルとして受け入れ、その後の展開を学ぶしかない。また、ここからは、超越者の存在を求めなくてもいいこととなる。 ・物理化学の時代 宇宙の誕生直後に生まれた素粒子クォークは強い力によって即座に結合し陽子、中性子等を構成し、さらには幾つかの陽子、中性子が結合することによって、水素、ヘリウム、リチウムの原子核ができた。しかし、周りに電子を持った原子となるのは温度が十分に低下する30万年後である。電子が原子核に捉えられたこの時点で光も自由に進めるように晴れ上がり、今、我々はこの光を眺めることができる。そしてこれ以降は、宇宙は、我々の知っている物理化学のメカニズム(自然の摂理)で進化していく。 この意味で、宇宙の全てのことは既に決まっているとも言える。ラプラスの悪魔はそれを予測することができる。ただ、実際には、量子力学の不確定性、計算量の膨大さから予測できないのだが、デカルトの二元論は不要で物質に作用する機械論のみで事足りるようだ。 【天体の時代】 ・膨大な宇宙 現在の宇宙の広がりは直径何億光年かなどと問うことは別として、宇宙の広がりを思い巡らすことはできる。ビッグバン後の物質の分布のわずかな揺らぎから、数多くの銀河が生成されるのだが、その構成を分かり易く、我々のいる位置から辿ると、まず我々の太陽系があり、直径3光年以上の広がりがある。この太陽系は、天の川銀河のオリオン腕(渦)で若干密度の低い部分にある。このため最も近い恒星までは4.2光年ある。また、天の川銀河は直径10万光年以上の広がりがある。天の川銀河の近辺にはいくつかの幾分小さい銀河があり直径1千光年の局部銀河群を構成している。この銀河群は、おとめ座銀河団に属し、さらに局部超銀河団に、そしてライアケア超銀河団に属している。この超銀河団は十億光年を超える広がりになるのだろうか。宇宙全体のなかでの銀河の数については、これまで何千億とされてきたがさらに一桁多いとも言われている。またそれぞれの銀河の中には、何千億という恒星がある。これを単純に計算すると恒星の数は、10の23乗となる。 我々の太陽系の太陽はこうした広大に広がる宇宙の中の恒星の1つに過ぎない。つまり宇宙の中での10の23乗分の1の存在となる。 ・重元素の形成 ビッグバン後最初に形成された恒星は、当初水素・ヘリウム・リチウム原子で構成されるが、およそ4億年後には恒星自身の重力の中で核融合が始まり、暗闇であった宇宙に光が灯り、重い元素が作りだされる。しかし、この核融合で形成されるのは、鉄までで限界がある。ただし中性子の作用で、亜鉛まではある程度作られるそうだ。そして、恒星はそれぞれの重力によって一定の経過をたどり、恒星によっては最後に爆発し、さらに重い元素が作りだされる。 地球を含めた太陽系も多様な重い元素が含まれており、我々はまさしく爆発した星の屑からできていると言える。 ・地球の誕生 太陽系は、超新星の爆発で散った屑が広がる空間で、46億年前に何かのきっかけで恒星・惑星系が形成され始めたものである。地球は、太陽からの距離に鑑みれば、本来岩石のみとなってしまうのだが、氷、水を含んだ岩石の爆撃によって水の惑星となった。そして生物が発生、繁栄できる温度が保たれる極めてきわどい位置(ハビタブルゾーン)にあり、この結果我々が存在できている。ちなみに太陽は50億年後には赤色巨星となり地球を飲み込み、その後白色矮星となって冷たくなっていく。つまり現在地球は誕生から消滅までの折り返し点にいる。 このような奇跡の結果存在するという表現は、実は138億年の経過の中での様々な事象を捉えて言えることである。過去から将来を展望すれば奇跡の連続だが、現在からみれば、我々は、いろいろな可能性の中から実現した1つの存在である。このようなことを逐一言及する必要はないのかもしれない。 【生物の時代】 ・生命の誕生 地球の特定の領域(例えば、水があり、一定の温度がある海底噴出口の脇と目されている)で、まず、雑多なアミノ酸等が形成された。さらに、たまたまRNAが、そしてたまたまDNAが形成され、さらに幕で包まれた。悠久の時間の中で一つずつ昇る化学進化から、たまたま生命が発生したのである。その後は生物進化に任せられ、ここでも悠久の時間を使って多様な生物が生まれてきた。 自己増殖する生物であっても物理化学の法則(自然の摂理)の中で発生したことは間違いない。生命の中で行われている多様な反応も当然物理化学の法則の乗っている。この果てに、我々も出現している。 ・地球と生物の共進化 地球上に多様な細菌が発生してから、生命と地球は共に進化してきた。特にシアノバクテリア等による酸素の発生は、鉄鉱床の形成、全球凍結の引き金など地球に著しい変化をもたらした。また、酸化は当初の生物にとっては猛毒の作用であったはずだが、これを利用することで、生物は大きく展開した。他方、オゾン層の形成は生命を守る働きをしてきた。 我々が酸素を二酸化炭素に変え大気中に蓄積することで、地球温暖化が進みつつあるようだが、地球の歴史ではこれを遥かに超える出来事も多い。 ・進化メカニズムの獲得 当初の原核生物から、10億年以上を経て真核生物が生まれ、さらに10億年以上を経て多細胞生物が発生し、性を持つようになった。この結果、生命に個体の成熟と死が組み込まれ、個体が代々入れ替わっていくこととなった。これによって、生物が次第に進化していくメカニズムが形成されたといえよう。 生物の死とは、生命に組み込まれたメカニズムであり、これによって新たな進化が可能となり、我々の存在をもたらしているといえよう。 ・カンブリアの大爆発 当初のエディアカラの多細胞生物はその痕跡が残りにくくかつては存在が知られていなかった。しかし次いで、角質を持つ生命が発生し、生命それぞれが武器と甲冑を備えるよう一気に多様化したのがカンブリアの大爆発である。これは凡そ5億4千年前のことである。我々の祖先であり、体の中に軸を持つ脊索動物もこの時期に既に発生している。しかし、三葉虫等の節足動物が繁栄する中で、敵を避けながら陰でひっそりと暮らしていたのではなかろうか。 生物の進化の中で、人がその最先端にいる訳ではない。多くの種がいる中で、現時点でたまたま栄えているだけである。 ・魚類から陸上へ シルル紀に魚類は顎を持ち効果的に食料が得れるようになり、さらにデボン紀に至り繁栄した。次いで、植物が陸上に栄え、酸素が増え、巨大な昆虫が飛び交ったりしたのが石炭紀である。我々の先祖も両生類(四足類)として陸に上がった。我々はこの時代に蓄積された炭素を掘り出し炭酸ガスとして一気に大気に戻している。なお、この後のペルム紀末2億5千万年前には、地球内部からのホットプルームの沸き上がり、溶岩の大流出があり、パンゲア超大陸の分裂とともに、生物の大絶滅が起こっている。 ペルム紀末を含め、地球上での生物の大絶滅は、これまで5回起こったとされるが、現在の地球温暖化で大絶滅が起これば6回目となる。 ・爬虫類の陰に ペルム紀末の大絶滅からの生物の回復には時間がかかり、さらに2億年前の三畳紀末にも絶滅があったようだ。この時期に爬虫類が栄え始め、単弓類から進化した哺乳類も生まれていたようだ。そして三畳紀には哺乳類の種がある程度の勢力を持つこともあったようだ。しかし、ジュラ紀、白亜紀は、恐竜が覇権を握っていた。そして65百万年前の白亜紀末には、地球への大隕石衝突により、生物の大絶命が起こっている。 この時代でも人類の祖先は決して主役でなく、まさしくネズミのような様相で夜間に走り回っていたようだ。 ・サバンナへの脱出 恐竜絶滅の後に哺乳類の時代がやってきた。胎盤を持つ真獣類が大きく分化したのは、パンゲア超大陸の一層の分裂時代と重なる。真獣類は、それぞれの大陸に乗って、大きくは4つに分かれたらしい。54百万年前にはユーラシア大陸の南部にゴンドワナ大陸が衝突し、ヒマラヤ山脈が形成され、この結果アフリカが乾燥に見舞われた。このため我々の祖先は、森から離れ、サバンナを彷徨うことになる。サバンナにいた多様な肉食獣から身を守るため、食料を探すために、我々の祖先は、集団で生きていく必要があった。そして多様な人類が生まれたが、20万年前頃にはホモサピエンスが出現した。その後の氷河期の中では、一度は人口千人以下の危機に直面したらしい。 この時代のサバンナで暮らす人類の祖先は、決して有力な生物でないが、小動物等も盛んに食べるようになり、次第に強く生きていく能力を持ち始めたのだろう。 【脳の時代】 ・神経系の進化 生物の生存の仕掛けとしていろいろな刺激に体を動かし反応するために神経系が形成されてきた。当初は、刺激と反応の対応が狭く決められた小脳システムとして発達した。その後、反応の経過を記憶として蓄積し、新たな環境変化にいろいろと対応できる大脳システムが発達した。ホモサピエンスの段階では、目前の事態により効果的に対処することから、自分を認識し、他者を知り、自分と他者について考える自分自身に気づき、さらに記憶機能の充実を基礎として時間的流れの中で物事を判断するようになっていく。 このように、人の脳は、環境への反応システムとして多様な役割を果たすようになってきた。 ・私とは ヒトを含め生物は自然の摂理の中で行動している。その行動をエピソードとして記憶蓄積する過程を我々は意識として認識しているらしい。この環境の中で生まれる意識を各人が自らの主体的な意識とみなしている。つまり、環境の中で自ずと形成される意識以外に、ヒト個人が自然の摂理から離れて主体的に創造する意識というものはないのだとも言えそうだ。例えば、我々が手を動かそうと意識した時、既に体の中では動かすための指令が出てしまっている。 私とは、連綿と引き継がれた生物体(私の身体)の中に形成された、蓄積情報とそれと密接に関連して形成された反応性向だ。生まれてから、一定程度成長したある日に、こうした意識に目覚める(自己を認識する)。 ・都合のいい解釈 ヒトは、真実を解明し、それに基づき判断し、最適な行動を取ってきているわけでは決してない。環境を都合よく解釈し臨機応変に行動することにより生き延びている。さらに多様な虚構も受け入れている。むしろ虚構を皆で共有することが、集団を安定させている。 このため物事に関して、無意識に、不足する情報を勝手に補い、物語を創り、自分に都合のよい解釈をしがちである。この性向から逃れることが容易ではないことをしっかりと認識する必要がある。例えば、戦時下で誰もが自国を正当化するのはこの働きである。 (人類の時代) 世界史の解説書は無数にあるが、人類のこれまでの歴史を体系的に把握するために好都合な書としてユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』がある。以下の整理の枠組みはこれに準拠しており、内容の引用も多い。 【認知革命】 ・共同幻想 ホモ・サピエンスがなぜ他の生物・サピエンスから抜きん出て勢力を伸ばすことができたのか。我々が一定の集団で暮らす場合、人と人との関係を調整する必要がある。そして集団の構成員相互の関係を知り・確認するため、時には自らを優位な位置に置くため、あることないことを含めた噂話がなされてきた。この中で、自ずと多様な虚構が生まれそれを信じることも起こった。そして人は、この虚構(神話)の下でこそ、うまくまとまって生きることができる。 ちなみに、これは『サピエンス全史』の全内容の基調となる考え方であり、近年の脳神経学の知見とも重なっている。 ・グレートジャーニー 人類は、新たな生活空間を求めて、あるいは食料を求めて全世界に広がった。アフリカを旅立ち、オーストラリアや南米の南端までの旅はグレートジャーニーと呼ばれる。例えば、極寒のシベリアを東進したのは、防寒に成功した上で、マンモスを求め続けたからであろう。北アメリカからの南進も、豊富な食糧を追い続けたのであろう。そして、それぞの新天地で多くの種を絶滅させてきた。 人は、今日も多くの種を絶滅させつつあることを自覚する必要があろう。ピーター・シンガーが主張するよう人類はもとより動物を差別することの意味ももっと考える必要がある。人類は、早期に人造肉等を開発して、この課題をある程度解決していく必要があるのだろう。 ・時間的ゆとりのある生活 積極的に動物を食料とすることができるようになると、必要な栄養摂取は短時間に可能となる。また、狩猟採取の暮らしは、厳しいことも多々あっただろうが、それなりに豊かであり、働く時間はかなり少なかったようでもある。 人は一旦、物を蓄えることを覚えると、より多くの物が欲しくなり、働き続けることとなる。物欲が若干抑制でき、うまく分け合う社会のシステムが実現すれば、今日の技術から考えれば殆ど働かなくていいはずだが。他方、ゆとりのある時間からは、遊びが始まり、芸術・文化が芽生えていったと考えられる。 【農業革命】 ・農耕と人口の増加 農耕は、中東での小麦、中国での米、東南アジアでのタロイモ、メキシコでのトウモロコシ、アンデスでのジャガイモそれぞれで独立して始まっている。それぞれ偶然に農耕の可能性に気付いたのであろうが、農耕に移行していくことには必然性があったといえよう。農耕の発生については、気候変動との関連についていろいろな説があるようだ。農耕を取り入れることによって、土地の生産性が上がる。しかし、長期的には、これによって人口が増え、結果として個々人の生活はかえって厳しくなった面がある。 今日の日本は、人口増加を良いこととして疑わない社会であるが、翻って考えれば、経済システムを首尾よく調整できれば、人口が少ないことに都合の良いことがいろいろとあるのだが。我々は、経済活動の拡大に拘り過ぎているのではなかろうか。 ・階層社会の形成 農耕での生産性の向上により余剰が生まれるが、一部の人はそれを収奪して暮らすようになった。この背景に、シャーマンが語る神話を信じ、王を筆頭とする主従関係を宿命として受け入れてしまうことがある。人の社会の多様なヒエラルキーは、虚構から創られ、それを認めることにより、虚構が強化される悪循環でできている。なお、農耕開始の前に神殿を築いた文明もあるようだ。最近発見されたトルコのギョベクリテペの遺跡はそれらしい。 現代社会の様々な格差も虚構で納得している面が多いのではなかろうか。多くの人の労働報酬は、働き産み出した価値への対価とされるが、組織の中での労働の評価は全く怪しい。各人はそれぞれの所得により生計を立てている。こうした中で政府等を介して、乳幼児、高齢者、若者、病弱者等々の社会の構成員を社会全体で支えていくシステムの構築もあり得よう。 ・文字の発明 農耕での収穫を徴収する中でその記録のために数字が発明された。さらにその延長として文字が発明され、様々な情報を我々の脳の外に蓄積できるようになっていく。今日ではコンピュータがこれを補い、蓄積された情報を効果的に活用されるようになってきている。いわゆるビッグデータの活用である。 ビッグデータの活用の潜在的可能性には、際限のないものがあり、我々はいかなる活動をしていようと、いろいろと積極的に取り組んでいく必要がある。 【人類の統一】 ・交易の拡大と通貨の利用 我々は、手元では入手できない物を交換によって得れることに気付き、その範囲を次第広げていった。さらに、この交換、あるいは奪取により膨大な利益を得ることができ、主としてヨーロッパの人々が地球規模に販路を広げていった。その後、交通通信手段の発展に伴い、人々の生活空間も次第にグローバルな広がりを持ってきている。他方、一定の地域で利用され始めた貨幣は、次第に広く共通して使われるようになり、結果として人々を取りまとめてきた。 我々は、最早何事についてもグローバルな視点で考える必要があろう。自らの国、民族のみの論理で動くことはできなくなっている。また、ビットコインという新しい通貨の利用が始まっているが、この動向には注視していく必要がある。 ・宗教による統合 ヤスパースの唱える枢軸時代は、人類が精神的に覚醒し、哲学、宗教が起こった。キリスト教、イスラム教、仏教、儒教等々が生まれたが、このうち一神教は、信仰の中にその布教が使命としてあり、意図的に広められていった。宗教は、間違いなくグローバルな秩序形成を促した。 しかし、138億年の歴史が見え、超越者を必ずしも必要としなくなった現在、宗教をどのように捉えていけばいいのだろうか。今後とも世界で果たす役割は大きいであろう。グールドの言うように妄想と決めつけて終わることもできない。ちなみにゴーダマ・シッタルダによるもともとの仏教は超越者を持ち出してはいない。 ・帝国下の融合 歴史上あった様々な帝国は、傘下に多様な民族を多様な方法で治めてきた。長期的に見れば、結果として支配統合した文化を融合し、民族を融合させてきた。さらに長い年月の後には同一民族の意識が形成されている。幾多の民族意識には背景の怪しいものも多い。さらに遡れば、少数のホモサピエンスの祖先に行き着くのだが。 しかし、民族問題は、今日の世界で避けることはできない。こうした中で日本人は、自らが、一つの民族でまとまっていると考えており、普段は意識しする必要もないが、一旦問題があるとしっかりと固まりそうである。ただし、琉球やアイヌの存在を忘れてはならない。 【科学革命】 ・自然科学の展開 17世紀のヨーロッパ諸国では、ルネサンスを経て、宗教改革の中で神中心の世界観の重しが外れ、大航海時代での知識の爆発的増大もあり、科学・技術の開発に目覚めた。知は力なりはベーコンの格言であるが、知らないことの自覚と好奇心が、人の新しい行動を促していく。スコラ哲学に組み込まれたアリストテレスの自然哲学を超え、ガリレオ、ニュートン等々が新たな自然科学を展開していった。これに対して、アジア等のその他の世界では、自らは何でも知っていると思っていたきらいがある。 今日でも、自らの不明を自覚していること、知的好奇心旺盛なことが、自分の世界を広げていくのに大切であろう。なお、人類の歴史を語ると近代以降は専らヨーロッパの歴史を語ることとなるが、これは、我々の社会の多くがこの上に成り立っていることによる。 ・人文社会科学の展開 自然科学の展開を横目で見ながら、人文社会の分野でも科学的検討が指向された。経済学のスミス、マルクス、ケインズ、社会学のコント、ヴェーバー、デュルケム、ジンメル、心理学のフロイト等々列挙すれば際限がない。 人文社会科学については、背景に斉一性の課題があり、経済社会が変化していく中で、歴史的に積み上がっているようには見え難い。しかし、人文社会科学は面前の諸課題について、既成概念を打ち破りながら考えるための座標軸を提供するものとして常に大切であろう。 ・知識蓄積の脳外システム こうした科学の展開、そして宗教改革にも大きく貢献したのがグーテンベルクの印刷技術の開発である。我々の知識を脳の外に蓄積し積上げるとともに、他者に伝達することを可能にした。 近年通信技術が著しく進展し、そのシステムも地球全体に普及してきている。インターネットの普及などかつては想像もできない世界が実現してきているが、今後とも大きな変化が続こう。特に、情報の蓄積、伝達ばかりでなく、その処理が、人工知能として、世界を変えようとしている。 ・国家の形成 30年戦争(宗教戦争)後のウェストファリア条約(1648年)が、領土と国民で構成される国家を創った。その後ヨーロッパでは、多様な争いは国家間の問題として起こり、ユトレヒト条約、ウィーン会議、ヴェルサイユ条約等々と国家間の条約により処理されてきた。さらにはEUの結成に至っている。こうした国家というヨーロッパの文化が、今日では世界全体を覆っている。 しかし、領土と国民で構成される国家というシステムも多様な理由での人の移動等により、危ういことが露見している。 ・産業の組織化 産業革命は、紡績機・織機の技術革新、製鉄業の成長、蒸気機関による動力源の刷新によって起こった工場制機械工業の発展として説明される。しかし、単に狭い技術革新だけでなく、蒸気船や鉄道による交通革命はもとより、金融システムや都市社会の形成など多様な出来事が一体として起こったものである。 本来、産業活動としての企業経営とは、労働者として人を雇い、他者に喜ばれる財サービスを生産し、他者がそれを購入し支払った対価を労働者に配分し、労働者はそれによって多くの企業から財サービスを購入して生計を立てるといった経済循環のための営みであり、また経営者の受け取る配分は再投資し生産を拡大していくといった善の循環を図る活動である。 【争いから共生へ】 ・人権の擁護 宇宙137億年の歴史に鑑みると、生物の存在に目的は見いだせないようだ。しかし、それぞれなりに生存競争に打ち勝って存在しており、それぞれに生き続けようとする強い意欲は間違いなく持っている。そして、自らの存続のため、他の生物を殺傷することは当然あり、さらに同類同士の争いもごく普通にある。 人類もその長い歴史の中で、多くの殺傷を繰り返してきた。しかし、近代に至り、相争うよりも、積極的に共生する方が、より快適に生き続けることができると発想を転換してきた。他者の存在を認めるという意味での人権の発想である。 西欧の歴史に偏るが、神話等の虚構を形成し、厳しい身分制度を皆で受け入れてきた社会は、王の独裁を否定することから、崩壊が始まった。1215年のイギリスのマグナ・カルタ(大憲章)は、貴族の要求に屈した国王ジョンの譲歩であるが、人権を認める嚆矢とされることがある。さらに、16世紀の宗教改革を経て徐々に信教の自由など人々を縛る虚構の否定が進む。また、市民階級の台頭を背景にグローティウス、ロック、ルソーなどにより近代自然法論が展開される。 人権についての法典等としては、アメリカ独立宣言(1776年)、フランス人権宣言(1789年)が嚆矢とされる。そして国際的には、1948年12月10日国際連合により世界人権宣言が採択されており、さらに1966年12月16日には、法的拘束力のある国際人権規約が採択されている。 もちろんこれで人と人の争いがなくなった訳ではない。個人的犯罪もあれば、社会の習慣による縛りもある。さらに国家等の体制維持のための争いも多い。また宗教的争いについては収まる見通しさえない。 いずれにしろ、一般論として、各人の存在を認め争いを避けるべきことは共通認識となっているいえよう。 ・不戦の誓い ウェストファリア条約(1648年)により、国家における領土権、領土内の法的主権およびと主権国家による相互内政不可侵の原理が生まれた。ただし、戦争が否定された訳でなく、19世紀の国際法でも至高の存在者である主権国家は相互に対等で、戦争は一種の決闘であり、国家は戦争に訴える権利や自由を有すると考えられていた。 20世紀に至り、第一次世界大戦後のパリ不戦条約(1928年)では、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定している。ただし、各国の自衛権の保持を確認しており、条約違反に対する制裁は規定されていない。この条約には自ずと限界はあったが、その後の国際法における戦争の違法化、国際紛争の平和的処理の流れを作る上で大きな意味を持った。そして国際連合憲章第2条では「武力行使」の慎戒が協定されている。 このようにして、国家間の争いである戦争についても、否定すべきことは、共通認識となっている。 以来、3四半世紀近くの間、世界規模の大きな戦争は起こっていない。 【限界の露呈】 ・知の限界 不確定性、不可能性、不完全性はそれぞれ、素粒子の位置と運動量を同時に決めれないこと、個々人の選好から社会的選好を決めれないこと、公理の無矛盾性を証明できないことをいっており、我々の知識には本質的な限界があることの事例である。ウィーン学団の論理実証主義の行き詰まりから、ポパーの唱えた反証可能性がある言説が科学だとされている。科学的知識は、常に取り敢えずのモデル(仮説)であり、その蓋然性を高めていくことが我々の営みとなっている。 絶対間違いないということはなく、蓋然性の高いものを求めていくという姿勢は、いろいろと思考するとき大切であろう。限界を認識しつつも取り敢えずは妥協して進めていくことを許してくれる。もっとも人文科学でのソーカル事件のような、他者から否定されないことに乗じて、無責任な言説が行き交うことも多いのだろうが。 ・個人主義の限界 かつて我々は、生活に必要な財サービスは家族地域社会で作り消費する自給自足の生活をし、個々人の役割も自ずと決まっていた。その後産業社会の展開の中で、所得のために外で働き、財サービスも外で求めるようになり、家族・地域社会の役割は縮小してきた。自由主義・個人主義の発想はこうした中で生まれたものであり、産業社会が作り出したものである。この結果として、さらに家族地域社会の絆も崩れてきている。そして不足するものは政府が供給するようになってきているが、市場・政府で我々の生活が十分に支えられる訳ではない。この限界をどう支えるかが、現代社会の大きな課題である。 個人主義を信奉するとしても、常に反省し続けることが必要であろう。しかし、全体主義への危惧にも留意し続ける必要がある。 ・資本主義システムの限界 信用供与システムが資本主義の発展を促した。しかし、今日の金融システムは、拡大し続けざるを得ない自転車操業となり、一人歩きしている。利益本位で動き、非倫理的行動を顧みないことも多いようだ。また、企業内での利益の配分も、各人の貢献度によるとして、バランス感覚を著しく欠いている。 自ら判断して新機軸に融資することには価値があるが、このプロセスを持たず、人々にとって価値のある財・サービスの生産を伴わずに金銭的利益を産み所得を得ることは社会的価値がない。これを確認してキャピタルゲイン税等を工夫すべきで、金融工学など守銭奴の行為は反省する必要があろう。法に触れなければ、さらには見つからなければ、何をやってもいいという発想はいかがであろうか。 ・地球温暖化 人の活動による温暖化ガスの排出が、地球の温暖化をもたらしていることは間違いない。その程度や危険性について確実なことは分からないが、かなり危険で生物の絶滅に繋がる可能性もある。確率的に起こる可能性があれば、それなりに対応するのは当然である。 パリ協定での日本の目標はかなりお粗末であり、世界から顰蹙を買っている。しかし、国内ではあまり自覚がないようだ。ところで、温暖化ガスの排出について一人当たりどれだけ許容されるか考えた場合、世界全体の排出許容量を設定した上でそれを全人口で等分したものとなろう。カントの定言命法を持ち出すまでもなく当然と思える。とすると我々は、所得を一定以上得てもその消費ができなくなっている。誰もが困惑するだろうが、こうした議論をもっと広めるべきではなかろうか。 ・国境の限界 1945年以降、これだけ大きな戦争がない期間が続いてるのは人類史上初めてである。それは、戦争が採算に合わなくなってきているためである。被害の大きさはもとより、戦争に勝つことによっても今日大事なソフトなものは獲得できない。戦争により領土を取得するという行為がなくなったといえよう。とはいっても、ヒトは未だ人全体として、地球生命全体として、調和して生きていく術を身に付けていない。 我が国も、全体主義の危うい方向に向かっている懸念がある。労働力としての外国人の入国、多様な難民等の受け入れなど、どのように対応するか見識ある姿勢を明確にしておらず課題が積まれている。また近隣諸国との関係も極めて脆弱なものとなっている。 ・現代社会の論争 この項を体系的に語る能力は、自分には全くない。その上で、自分なりに気になっていることを書き留めておく。ただし、他の項以上に誤って理解していること、他にも挙げるべき論者がいるかもしれないことなど省みない記述である。 倫理・正義の議論については、昨今の日本ではサンデルの白熱の講義が持ち出される。しかし、自分としては、カントに基礎を置いた、ロールズの正義論に惹かれる。正義の在り方として、自分が何者か知らない無知のヴェールの後での判断が普遍的で正当と考える。勿論、現実の社会でこの倫理規範が実践されることは容易ではないのだが。 社会学については、かつては'60年代末に大学で学んだパーソンズの体系に惹かれたが、現実社会での効果的活用ができない。その後は、ハーバーマスの公共圏が気に掛かっている。楽観的という指摘もあるが、専制を避ければ、これしかないということだ。また、日本でコミュニティの議論が盛んになされ、その重要性を強く感じるが、バウマンの指摘するように、本物になり得るかは懸念がある。 経済学については、スミス、ケインズ、フリードマン等々古典が並ぶが、今日的課題については、スティグリッツやライッシュのように今日の資本主義市場経済社会の欺瞞の指摘に賛同する。ヴェーバーの言うよう学問に価値観を不用意に持ち込むことは御法度だろうが、現実に経済活動する者に倫理観がなくていいということではない。金融は多様な新機軸を実現するための信用創造に欠かせないシステムだが、利益創造のみのために法律に触れない範囲で投資し利潤を上げようというのは守銭奴であろう。これを助長する国の施策があったりするが、どこかが狂っている気がする。 経営学については、株主利益の最大化が目的と宣言するビジネススクールの教えなどは賛同できない。ミンツバーグはバランス感覚のある議論を展開していると思える。 138億年のメッセージから得るもの 当初の宇宙の発生を受け入れ、物理化学の法則(自然の摂理)を認めれば、私とは連綿と遺伝子情報を受け継いで形成された生命体の中に形成された意識であり、仏陀が教えるように、我々が生きることには、アプリオリな目的はないようだ。 ヒトは本来どうあるべきかということは、結局はこれまでの経過からは演繹されず、各人が自分は何をしたいかから出発する他はないようだ。そのうえで、整合性がある議論を展開し、自らの思考・行動規範を明らかにしていく必要がある。その規範は他者を説得しようとするものではない。説得したいのであれば、自ら行動することによって、他者が模倣することを期待する必要がある。 戻る (Jan.06,2020Rev./Jan.25,2017Orig.) |