2つの正しさ社会の在り方を検討する際には、人々が各自なりに正しく考え、正しく生きることを前提にする必要がある。各自が時と場合によって判断基準を変え整合性のない態度を取るのであれば、共に生きていくことが困難になろう。 ところで、日本語の正しいには2つの意味がある。 「道徳的に正しいこと」と「真実に寄り添うこと」である。 (英語では前者が"Justice"、後者が"True"、そして2つ重ねたものが"Right"であろうか。) このうち道徳的に正しいことについては、正義論と言われ、いろいろな議論がなされてきている。そして、個人によって異なる立場がある。このため、基本的には、各自が自分の道徳的位置づけを明確にし、それに沿うことが大切であろう。 近年、正義論が再考されたのは、J.ロールズが、I.カントの格率を基礎にした「正義論」を1971年に著したことに始まっている。ロールズはリベラルと位置づけられるが、これに対して、一方に他者から縛られることを強く避けようとするハイエクのようなネオ・リベラリストがいる。他方に、アリストテレスからの伝統を受け、現実の社会の中で徳として考えられるものを列挙し受け入れていくべきとするコミュニタリアンがいる。コミュニタリアンと呼ばれる人はサンデルを始め多くの人がいるが、それぞれの議論には違いがあり、コミュニタリアンとして一色体に捉えられることは拒否されている。 このような、正義の考え方を体系付けた議論としてJ.ハイトらの社会心理学者が提唱している「モラルファンデーション」の枠組みがある。これは、基本的な規範として、A.個人の尊厳を採るか、B.義務などへの拘束を採るかの2つの軸で整理されている。誤解を招くかもしれないが、極めて大雑把に言えば、Aがリベラリストに対応し、Bがコミュニタリアンに対応する。そして双方の規範を避けるのは、ネオ・リベラリストであり、双方の規範を受け入れるのは身近には明確な存在が見られないが宗教的左派の立場となる。 小生の規範については、基本的には、リベラリストの立場であるが、社会全体での共生・整合性に配慮も多少はすべきという意味で若干の宗教的左派指向を持つ。ただし、この方向性は他から押し付けられるのでなく自ら選択 していくことを前提とする。 他方、真実に寄り添うことについては、自らしっかりと考え、何が真実か見極めようと努力することが大切である。すくなくとも、他者に判断を委ねるポピュリズムに陥ることは避けたい。「思考しないことが凡庸な悪を生む」は、政治思想家H.アーレントの言葉である。 我々は、あらゆる情報を十分に持ち常に正しい判断をしている訳ではない。欠落する情報を既存の自分自身の知識・経験から補って、自分なりに物語を創り、理解し判断していることが近年の脳科学で明らかになってきている。つまりいろいろなレベルで偏見に陥ることが避け難いということである。このことを十分認識し、欠けている情報を自覚し、異なる物語の可能性を念頭に置いておく必要がある。 ちなみに仏陀の八正道は基本的にこの正しさを求めているのであろう。 さらに近年の科学の進展により、宇宙138億年以来の我々の存在がいろいろと見えてきている。これによって超越した物語を敢えて準備しなくてもよくなっており、「正しさ」の話を透明に語ることができるようになってきている。もっとも人生の目的等も事前的には与えられず自分で準備する必要ができており、この意味で生きることが厳しくなっている面もある。 個々人により考え方の違いがあり、社会の合意を形成していくことには困難が多い。しかし、各人がそれぞれの考えを明確にし、正しく考え正しく行動することを前提として、議論を重ね、共通認識を形成していく努力が必要であろう。これは社会学者J.ハーバーマスが提唱した熟議である。 この熟議については、もとより可能性を疑問視する議論もある。しかし、近年は、このような努力の必要性を無視し、議論を蔑ろにする風潮が蔓延しているのではなかろうか。 社会ではヘイトスピーチが増え、インターネットの中では偏見が増長され、国会でも言葉が大切にされず、かつててであれば内閣が潰れたような失態でも無視して過ごすようになってきている。 ⇒戻る (Jan.06,2019) |