以下の内容は、未だ検討が不十分で、思いを十分に伝える内容になっていないが、とりあえず掲載しておく(Mar.17,2022)。

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富山からの革命
―前向きに生きる―

「富山を考えるヒント」と連続して描けないので、独立してここに掲載しておく。

T.革命の必要性とその前提
1.変革は不可避 @迫る危機
A前向きに生きる
2.正しさが前提 @真実に沿い、正義に適う
A本メモでの正義観
3.活動の鎮静化 @成長の限界
A成長を否定できるか
U.革命を起こすべき主要な事項
1.人口減少の受入れ
2.物の生産から支えあう産業へ @エネルギー消費的生産の縮小
A自給できる農業
B人と人が支えあう産業の活性化
3.支えあう生活 @エネルギー多消費生活の改革
A社会的関係資本の蓄積
B次世代の教育
4.持続可能な社会のための基盤形成 @土地利用計画の転換
A共生空間の形成
B人口に見合った基盤整備
V.行動のために
1.個人
2.行政 @持続可能性を前提
A正しい政治
B富山生活革命党
3.団塊の世代の懺悔

T.革命の必要性とその前提

1.変革は不可避

@迫る危機
 地球温暖化など我々がおかれている環境を考えれば、誰一人としてこのままの生活を続けられないことは明らかである。

A前向きに生きる
 今日の危機は、一般的には、当然ではあるが否定的に捉えられる。
 しかし、現実をしっかりと受入れ、それにいきいきと対応していくことで、前向きに生きていくことができるのではなかろうか。
 このため、富山の地域から、社会経済の革命を起こしていくことを提唱したい。

2.正しさが前提

@真実に沿い、正義に適う
 革命の内容を検討するには、事態を直視し、一貫性を持った議論展開し、正しく対応していくことが前提となる。
 ここでの正しくとは、真実に沿うこと、正義に適うことを意味する。
 我々の脳が物事を判断する際には、脳が既に持つ既存の知識を活用しつつ、新たな追加的情報を取り入れ、状況を再構築しているらしい。このため新しい事実であっても、古い枠組みで勝手に捉えてしまい、真実から離れてしまいがちとなる。このため、真実に沿うためには意識的な努力が欠かせない。
 また、脳は、逐一反省せず、都合のいい判断を勝手にしてしまいがちである。このため、物事の判断には、常に正義に適うか、自発的反省が必要である。

A本メモでの正義観
 正義に適うことについては各人意見が異なろう。このため、自分なりに正義を見極め続け、それを表明しておく必要がある。
 筆者の正義観としては、I.カントを背景に基礎に置いた。J.ロールズ的リベラルを指向したものである。
 R.ノージツク的な功利主義に基礎を置くリバタリアニズムでは、多様な不都合を事後的に調整することを指向しており、結果として生活に苦しむ人が多発する。
 M.サンデル的にコミュニタリズムは、アリストテレスと同方向で既存の道徳を列挙するものとなるが、これでは個別的事項でご都合主義に陥り、革命的な改革が困難なことは明らかであろう。
 優れたリーダーに付き従うといった、ポピュリズム的発想、さらには専制主義的発想は、一見魅惑的な面もあろうが、個々人の自律的自由を否定するものであり、論外としたい。


3.活動の鎮静化

@成長の限界
 新たな社会形成には、現在の多様な活動を鎮静化すべきことは明らかである。最早、経済的成長を指向することはできない。
 我が国の政権は、経済活動を配慮し、温暖化ガス排出削減は強硬には組めないという姿勢であった(安倍政権)が、アメリカのバイデン大統領就任直前にその政策が伝わり、我が国も削減にしっかりと取り組むと宣言した(菅政権)。
 以下の内容を考えるために一つだけ現況を述べておく。現在の炭酸ガスの一人当たり年間排出量は、世界平均約で5t、日本で約10tとなっている。人類一人ひとりの公平を鑑みれば、日本では即座に半分以下にすべきことは明らかである。さらに先進国ではこれまで相当量排出してきたことに鑑みれば早急に限りなくゼロに近付ける必要がある。これは各自に課せられた義務であって、所得があるからといって排出量を増やすことは許されない。
 富山県に即していえば、冷暖房でエネルギーをかなり消費しており、最早これ以外には殆ど使えない状況となっている。例えば、海外旅行や遊興での自動車利用などは殆ど否定されよう。
 「3.11を忘れてはいけない」という言葉は当たり前に受け入れられているが、むしろ「自然災害が激化しつつあることを肝に銘じよう」こそ大切と思われるが如何がだろうか。
 こうした事実をどう捉えておくかが、各自の判断・行動の岐路となる。
 現実には、正義に適わないことを詫びながら生活していかざるを得ない。

A成長を否定できるか
 人類は、これまで、より多くを求めることによって生き延びてきた。
 この生命の性(サガ)に抗うことはできるのだろうか。このためには、新たな知恵が必要である。
 肥満・高血圧は、人類の欠乏の時代の習性として、新たな生活環境の中で、避け難いものとなっている。これに対応するためには、糖分・塩分の過剰摂取を改める必要がある。
 地球温暖化が進む今日の社会では、成長(一層多くの物的消費)を否定せざるを得ない。
 かつて、1970年代の初めにローマクラブの報告書「成長の限界」がこのことを指摘した際には、筆者自身も成長の否定など創造もできず、マルサスの再来として片づけていた。しかし、最早、避けられないことが明確になっている。
 実は、成長を否定すると、生活の原点に戻って、我々は何を求めたいのか考え直す必要がある。これは各人各様であろう。しかし、個人としてこれを設定することは、ニーチェの言う超人になることであり極めて難しい。筆者なりの思いは、以下の検討では表にでないが、皆で分け隔てなくワイワイと楽しく生活していくことを目指すことである。これは、I.イリイチが「コンビビアルな社会」(共愉社会)と呼んでいるものである。物的生産の総量が変わらなくても、分け合うことが首尾よくできれば楽しい生活も可能である。我々のこれまでの生き方を大きく変更し、新しい社会創造の先鞭を付けていきたい。


U.革命を起こすべき主要な事項

1.人口減少の受入れ

 人口減少の中で、その増加策が模索されているが、むしろ減少を受け入れ、それに適切に対応していくことが、最も重要な課題ではなかろうか。
 1980年代初めの富山県民総合計画策定に際しての県庁内部の試算では、30年後の人口を見通し、結果として2010年の人口を千人のずれもなく予測していた。そして、当時、この予測に従って、人口減少への対応が必要なことを確認していた。しかし、公共事業の抑制等は政策的に不可能として、対応しないままできた。さらに1990年代末の減少局面に入って以来、人口増加政策を模索してきている。
 ちなみに、温暖化ガス排出削減の長期的な対応策としては人口の削減が極めて効果的である。また、気候変動の中での必要な食料確保策としても人口自体を減らしておくことは意味がある。他方、今日のような環境の中で、出生率を増大させることは極めて困難である。もちろん子供を産み育てることが困難な状況は改めていくことは言うまでもない。
 合計特殊出生率が現在の1.4水準で長期間続けば、約四半世紀後の対応する世代の人口は0.7倍、半世紀で半分、そして世紀末までには1/3近くとなる。かなりいい加減な計算であるが、これは日本の国土での食料自給可能量の目安でもあろう。
 現在の趨勢では、2050年の富山県の人口は概ね80万人程度と見込まれ、約四半世紀で人口が2割程度減少する状況にある。このため、富山なりに人口減少を素直に受け入れることを宣言し、それに見合った生き方、地域づくりを進めていくことが必要であろう。こうした考え方の下では、今日の多くの行動を改めなければならない。
 政策目標としてひたすら人口増を掲げるのは、まず経済成長指向が背景にあろう。これは既に困難な発想となっている。さらに人口高齢化への対応が困難な課題であるが、これは互いに支えあう仕掛けを積極的に構築していけば解決可能ではなかろうか。


2.物の生産から支えあう産業へ

@エネルギー消費的産業の縮小
 あらゆる生産活動をおいて、エネルギー消費を削減するする可能性を検討し、実践していかなければならない。富山県は、産業の中で製造業、建設業の比重がかなり高く、厳しい状況にあるが、これ産業の収益が減るからと言って、対応を回避することはできない。
 まず、物的生産の総点検の事例として、生産の裾野(波及効果)の大きい自動車と建築について見てみよう。自動車を遊興の手段として活用することは避ける必要があり、それを助長する宣伝等は控えなければならない。また、電化・ハイブリッド化は望ましい方向であるが、やはり膨大なエネルギーを消費するものであり、これで利用を削減しなくてもよいと錯覚してはならない。
 建築については、人口が減少する中で、追加的な住宅建設や基盤施設整備はマクロ的には必要がなくなっている。例えば住宅については既に空き家がかなり多くなっており、さらに建築が進められているが、極力抑制していく必要がある。
 あるいは、今後の産業振興の核として、観光産業が取り上げられているが、自動車や飛行機の利用は膨大なエネルギー消費を伴い、抑制すべきである。
 さらに農業に関しては、季節外れの野菜生産や牛の育成は控える必要がある。
 これらの内容は、生産者が主体的に方向転換していくべきであるが、消費者の行動変容もそれを促すものとして重要である。
 他方、再生可能エネルギーの開発を積極的に進めることも課題である。
 いずれにしろあらゆる産業活動の幅広い点検が必要であり、富山県でこうした対応に拍車をかけるため、その象徴として立山道路除雪中止宣言をしてはどうだろうか。

A自給できる農業
 地球温暖化の中で、まもなく世界的な飢饉が起こり、不足国は輸入できなくなることが予想され、食糧自給化は喫緊の課題である。
 これに対応した農業生産力の維持拡大は、諸制度の改革と資金投入によって実現していかなければならない。
 まず、耕地の維持拡大が必要であることは間違いない。このため土地利用計画の改定、農転の禁止、さらには農地の拡大等が求められる。
 また、水田稲作地帯の富山の役割は、確かな方向は周知しないが、例えば、気候変動に対応できる米と大豆の生産力を形成していく必要があるのではなかろうか。ともかく食糧自給富山戦略が求められる。

B人と人が支えあう産業の活性化
 一方、多様なエッセンシャルワークを強靭なものとしていくことも課題である。特に各種ケアワークが産業として展開できるよう、資金を回していく必要がある。日常生活に必要な範囲での財サービスの生産ができれば、あとは労働力をケア産業に回していく。
 いずれにしろ早急に、富山ケア産業複合体形成宣言を発して、取り組んでいく。
 ただし、これらは、社会保障を拡充するというのでなく、人々の支えあいの展開とともにその機能の向上を図っていくということである。


3.支えあう生活

@エネルギー多消費生活の改革
 エネルギー多消費の生活行動は、正義に適わない行動であることを各自が真摯に反省し、生活を転換していく必要がある。特に、富山県民の生活は特にエネルギーを多く消費しており、温暖化ガス排出ゼロ化宣言を発し、対応していく。
 まずは、自動車については、日々の利用の削減するとともに、長期的には、自動車を利用する必要がない居住・職場の選択が必要である。
 一定程度の冷暖房は避けられないが、できる限り節約する生活に改めていく。住宅の広さもエネルギーの浪費につながっており、住まい方の多様な工夫が必要である。
 その他、各種物財・サービスの消費においてもエネルギー消費削減が求められることは言うまでもない。こうした状況では、生活の喜びを何に求めるかが課題となり、各自は生活の重点を移行していく。

A社会的関係資本の蓄積
 今日の資本主義経済の中での格差の拡大、人口の高齢化の中でのケアを求める人の増加などに対応するため、人々が互いに支えあう生活を目指す必要がある。共生の中に生きる喜びを感じることによって新しい生活を築いていくことができよう。
 このため、人と人の多様な繋がり(社会的関係資本;R.パットナム)をつくり、蓄積していく必要がある。具体的には、生活のいろいろな側面で、コモンズ(共有領域)を拡張していくことが契機となろう。これは物財の共有だけでなく、共に過ごすことを含めた時空間の共有である。
 行政に頼るのでなく皆で支えあう仕掛けをどう形成していくかが大切である。
 明確な内容を示すことは難しいが、既に多様なシェアの試みなど挑戦が始まっている。
 富山県は人の移動がすくなくそれなりに従来からのコミュニティの繋がりがあり、かえってこのような新たなアソシェーションの繋がり合いの発想は苦手なようであるが、自由で拘束のないな繋がり合いを積極的に形成していく。

B次世代を育てる
 バブル経済崩壊以降年、日本の経済社会がうまくいかないのは、一人ひとりがご都合主義で生きるからであろう。社会のトップが嘘・偽りを語るようでは国民も倣うことは当たり前である。物事を儲け本位で考えるため、今日の経済活動、政治活動等々の中でかなりの混乱が起きている。
 この対策として、基本的には、社会を担う人、正しい行動を指向する人を育てていくことが必要である。
 富山県は文部科学省が主導するコミュニティスクールなど学校教育への地域住民の参加にはかなり消極てきだが、このような制度との関係はともかく、地域住民の主体的対応が必要である。子どもの教育を学校だけに任せるのではなく、積極的に参画していく必要がある。具体的には、地域社会で一緒に生活する中で、子どもの成長を促していく他はない。子供を皆で育てる地域社会の形成が必要である。

4.持続可能な社会のための基盤形成

@土地利用計画の転換
 経済社会の再設計の物的な基礎として土地利用の在り方が課題となる。これまで、土地利用については、個々人の自由な権利として、積極的な議論を避けてきた側面があるが、その所有権・利用権の規制に入り込む必要があろう。
 特に富山県では、都市的地域(DID)の人口密度が極めて低く、同時に県全体の中でDIDに住む人口の比率も低い。これは、市街化調整区域の外側の農振農用地区域で、農転により数多くの小規模団地を形成を各地域の農業委員会が認めてきたためである。具体的には、団塊の世代、団塊ジュニアの世代が、結婚し世帯を形成した時期(それぞれ1970年代初め、1990年代後半)に極めて多くの農地が転用されている。
 現在の富山県県土利用計画は、2021年度までの計画でその改定は未だなされていないようだ。そして、この計画自体は、現実の土地利用の変化の趨勢を後付けしたもので、特定の方向を示したものとはなっていない。このため、耕地の削減目標が示されているようにさえ見える。
 現在、人口減少・高齢化が進んでおり、住み易い都市地域を維持していくため、空洞化を避けコンパクトにまとまった都市の形成が求められる。このため既存住宅の有効利用を図り空き家の増加を防いでいく必要がある。また、農地の新たな宅地化を抑制する必要がある。地球温暖化による食料供給の危うさに対しても、耕地の維持温存が重要である。さらに長期的には、海岸線からの撤退などへの配慮も求められる。
 土地所有という権利の上に胡坐をかくことは許されず、土地所有者はそれなりに有効活用を図っていく義務がある。これはJ.ロックの所有権の根拠付けにも沿うものである。このような21世紀前半の県土利用のイメージを共有するとともに、必要な規制とともに地域住民による土地の共有化を図っていく。これを実際の事業として進めるために、土地管理機構を設置する。

A共生空間の形成
 居住空間の整備としては、人と人が触れ合う空間の整備を積極的に図るとともに、移動の負荷を削減していくため、人々がコンパクトシティに纏まって住むことを目指す。
 人口減少の中で顕在化している空き家などの負の資産を積極的に活用していく。このため、富山県なりに土地・住宅の所有・利用の共有化、公有化を検討していく。
 他方、公共交通網の再構築として、鉄道の都心乗り入れを図っていく。既に富山港線をライトレールとして富山市都心の路面電車と接続しているが、さらに富山地方鉄道本線、あいの風富山鉄道、高山線も都心乗り入れを図り、日中15分間隔程度で運行できれば、利用価値は飛躍的に向上するであろう。

B人口に見合った基盤整備
 我が国全体のの基盤施設整備は、概ね1970年代には概成していた。その後も縦割りの行政の中で、個々の地域の基盤整備の必要な内容を包括的に判断せず、全国各都道府県一律に基盤整備を図ってきた。この結果、あらゆる基盤施設についてそれぞれの地域で一層多くの整備を図ることとなってきた。そして、景気浮揚や災害復興の度に事業の上積みが行われてきた。
 しかし、人口減少、地球温暖化、財政限界に直面する中で、社会資本整備のコストパーフォーマンスを真摯に検討し、新たな基盤施設整備の手仕舞いを図っていかなければならない。


V.行動のために

1.個人

 まず既に地球温暖化が進み自然災害が増加しつつある現実を直視することが大切である。
 その上で、何が正しい行動かを各自なりに考える必要がある。多様な考えが飛び交っているが、各自なりに正しい情報を見極める努力が欠かせない。何らかのリーダを追うとしてもポピュリズムには陥らないよう注意する必要がある。
 そして、できることを実践していく。自らの生のための労働や仕事だけでなく、社会との関わりを持つ活動(H.アーレント)を起こしていく。これには当然、限界はあるが、それをしっかりと認識しつつ生きていく他はない。
 こうした発想の下で、温暖化ガスの排出を削減し、人と人の繋がりを形成し、関係的社会資本を蓄積し、共に生きていく。

2.行政

@持続可能性の前提
 今日行政は、多様な課題を抱えているが、持続可能性を前提に政策を展開していく必要がある。特に、地球温暖化ガスの削減は急務である。
 現下のコロナ禍、エネルギー価格の高騰等は、それへの直接的対応も必要であるが、一方で政策変更の契機として捉え、新たな行動を起こしていく。

A正しい政治
 温暖化ガスの排出をゼロに近づけていく政策、人々の格差を助長しない政策について、政治的リーダはしっかりと議論し、人々に話しかけ、熟議を促していく必要がある。
 温暖化ガスの排出を助長する観光振興、財政赤字を上積みする各種の公共事業の継続、さらに一層の所得格差をもたらす個人資産形成の助長、さらには政治的支援を目論んだバラマキ政策などは、疑問が多いことは明らかであろう。
 また、政権の行動については、憲法遵守や予算の枠内などのルールが自ずとあることを確認する必要がある。これを守らないのは、社会的契約を基礎とした政治ではなく、お手盛りの行動に過ぎない。

B富山生活革命党
 ここまで検討してきた、今後の生活の在り方、社会の作り方は、カント=ロールズ的な正義観に基づく形而上学的な発想に基づいている。また、それを広める手段としては、ハーバーマス的な熟議を想定している。しかし、現実的には、そのまま合意形成ができる訳ではなく、ムフ的な討議的民主主義の中で、人々の説得を図っていかなければならない。
 このため、政党による運動が必要と考えられるが、富山生活革命党を設立してはどうだろうか。ここまで述べたような現実を直視した主張は、既成政党には困難なようだ。といっても新党で、当初から多数の賛同は期待できない。しかし、1割程度の人にでも納得してもらえれば、力になりだすであろう。

3.団塊の世代の懺悔

 小生も含まれる団塊の世代は、まもなく後期高齢者の域に達し、人生の終わりを迎えようとしている。
 団塊の世代が社会人となったのは1970年頃である。1971年にはローマグラブの『成長の限界』の報告があったがマルサスの再来として歯牙にもかけず、1973年のオイルショックには必死に対応しジャパン・アズ・ナンバーワンに至るなど、団塊の世代は、ひたすら経済的成長を追ってきた。
 1970年代半ばには合計特殊出生率の低下が始まったが一時的なものと予想し続け人口の減少・高齢化には十分には対応せず、さら1980年代末には地球温暖化の進展が確認されたが主体的に対応せず、バブル経済崩壊の中で景気回復策としてひたすら財政支出を拡大させてきた。
 我々は、こうした環境変化の中で新たな生活を展開せず、ひたすら個々人の資産積み増しに努めることを正義と考え、結果として経済社会を崩壊させてきた。
 団塊の世代は、後の世代に持続可能な社会を引き継ぐことはできず懺悔するのみとなっている。これではグレタさんに叱られるのは当然であろう。
 ここでは、はなはだ無責任ではあるが、新たな時代の在り方に思いを巡らし、富山から社会経済の革命を起こしていくことを提唱した。

(Mar.22,2022Rev./Mar.19,2022Orig.)

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