表紙に戻る

私の生き方

 本文「参考.地域創りの意思決定」から再掲。
 内容は、飛躍が多く説明不足であるが、取り敢えず掲載しておく。


T.基本的考え方
 1.私とは
  (1) 脳の進化 ―体の諸機能の調整―
  (2) 脳の形成 ―様々なモラルの発生―
  (3) 意識 ―ドライバーとしての私―
  (4) 自由意志 ―普段からの思考の結果として析出―
  (5) 階梯を一段昇る
 2.目標の設定
  (1) 神の消滅―目的は与えられない―
  (2) 目的の不在―目的の設定―
  (3) 社会を創る―共通認識の形成―
 3.生き方の原則
  (1) 正義に生きる
  (2) 真実に生きる
 4.整合性のない現実社会
U.私の生き方
 1.私の今
 2.私の目的
 3.私の正義
 4.大転換
 5.私の生き方

T.基本的考え方

1.私とは
 私という自動運転されている個体のドライバー。

(1) 脳の進化 ―体の諸機能の調整―
 私とは何か。これに答えるには、私を意識する脳について考えることが必要である。
 それには、まず脳の進化、機能を知る必要があろう。
 散在した神経系を持つヒドラであっても、餌を触覚で認識し、触手にある刺胞の毒素で餌を麻痺させて取り込み、胃体腔で消化することができる。脳形成以前の段階でもかなりの機能が実現できるようだ。
 さらに、籠状の神経系を持つプラナリアでは、多様な機能を発揮しつつ外界に対応して生きている。口のある前方部に各種感覚器官が集まり頭化が進み、縮約できる機能をまとめた神経節が形成されており、これが脳の起源とみなせよう。
 旧口動物と別れた新口動物でもさらに頭化が進み脳が形成され、各種の感覚器官による情報取得、多様な動きが可能となり、同時に各種内臓の機能を調整するように進化してきた。
 神経系の各部分、脳は様々な判断(予測)をしながら、全体として統合され機能している。このように、本来、我々の脳は考えるためというより、身体の諸機能を調整していくためにあるのだ。

(2) 脳の形成 ―様々なモラルの発生―
 個々の個体の脳・神経系は、身体外部の環境に合わせながら、ネットワークとして形成される。環境によってネットワークの形成が促されていくため、脳は、各個体それぞれの環境のもとで多様に形作される。ひいては人によって異なる多様な倫理観が存在することとなる。
 各人の成長(発達)過程を追うと、生後まず身体の内外を区別して認識できるようになり、泣き声による危機表示とこれに対応した授乳などにより外とのコンタクト(コミュニケーション)が始まる。この応答の中で、今か未来かあるいは自分か他者かといった葛藤に面し、与えられた環境に相応しい選択を重ねていくことで、各自なりの性格形成が進められる。これは脳の前頭前野の構造に違いとして現れるようだ。
 その後青年期においては、第二次性徴があり、情動の強化とともに判断力の一層の強化がなされるが、各人の持つ性向と各人を取り巻く環境に相応しい成熟のタイミングが選ばれ多様な行動が現れてくる。これは脳の皮質の変化に差異が出てくるようだ。
 話が飛躍するが、以上のような発達の結果、@傷付けないこと、A公平性、B内集団への忠誠、C権威への敬意、D神聖さ・純粋さが、倫理観の基礎(モラルファンデーション)として、人によって様々な強さでもって形成される。ちなみに、この倫理観の始めの2つは「個人の尊厳」としてまとめられ、後の3つは「義務などへの拘束」としてまとめられる。
 ヒトが生き残ってきたという進化の過程から、我々の行動で、生き残るために他を犠牲にすることはもとより、個の尊厳を主張しすぎること、あるいは、これとは反対に集団への忠誠を求め過ぎることを避けるのは極めて難しい。これが個々人の犯罪や国家間の戦争までに繋がっており、人の本性とされることさえある。つまり我々個々人に自ずと形成される倫理観だけでは、人類が共に生きて行くことができない可能性を孕んでいるといえよう。

(3) 意識 ―ドライバーとしての私―
 ところで、私の意識はどこにあるのか。小生の考えでは、様々な情報を受入れ判断し、特記すべき情報として記憶しようとするとき、その内容を眺めているのが意識ではなかろうか。
 このことから私とは、私という個体の脳の働きを眺めるドライバーとも言えよう。
 モノを考えるとは、元来、体の内外からの刺激への反応であったのだろう。しかし、貯蔵された情報を再整理する過程も意識に上り、これが抽象的にもの考えることそのものとなろう。個体の諸機能の調整から若干独立して、脳内の情報が自己回転する結果であろう。結果としてものを考えていることになるのだが、通常は、これを「自ら考える意識」といって差し支えないだろう。
 このような視点を持つと、自分自身をかなり相対化して理解することができるようになる。

(4) 自由意志 ―普段からの思考の結果として析出―
 単なる自動運転している個体のドライバーでは、自由意志はどこにあるのか、そして様々な自分の判断の責任はどのように求められるのか判然としなくなる。
 意識に上る以前の多様な判断をしているのも自分自身である。我々は、多様な環境の情報と脳の内部の記憶(蓄積情報)を動員しての時々刻々の判断を行うが、常に十分な情報があるわけではなく、不足する部分は適宜補うこととなる。この際、自分にとって望ましい方向へとバイアスがかかることが避けられない。このバイアス(理論負荷性)に流されないためには我々は、特段の拘束のない普段から、理に適った正しい判断ができるよう、思考し続けているよう心掛けていることが大切となる。
 単なる自動運転している個体のドライバーだからといって自ら考えること(前項の「自ら考える意識」)を止めてはいけない。普段から物事を深く考えている結果が、時々刻々の判断に反映される。この普段から考える心掛けこそが各人の責任となろう。


(5) 階梯を一段昇る
 我々の発想には、多様な争いを避けることができないという困難な状況が内在する。
 しかし、われわれの存在がかなり明らかになり、発想のメカニズムも見えてきた段階で、この困難な状況を捨象することはできないだろうか。いわば人類の階梯を一段昇るのである。
 具体的には、各人が各人なりの基礎的な倫理観を探って、そこから矛盾のない自分自身の思考の在り方を再構築することができないだろうか。
 皆が仲良く生きて行く方策として、個人の尊厳と全体の調和を自発的に同時に受け入れることである。
 これは、現実には、宗教的左派とも称される極めて少数派の生き様となるようである。

(Jul.20,2021)



2.目標の設定
 人生の目的を考え、それに近づく目標を設定する。

(1) 神の消滅―目的は与えられない―
 人は、多様な情報を集め、既に持っている知識を動員して物事を理解する。ただし、十分な情報が集まる訳でなく、不足する事柄については、常に推測を交える。この際、推測を交えたことを認識していればいいが、これを意識しないことも多い。むしろ、推測を意識せず、自分に都合がいいように勝手に理解することが多いようだ。この結果、多様な理解困難な事柄について、人類は超常的な存在を持ち出して理解してきた。
 こうした理解を積み重ねると、その人にとって、それ自体が疑いのない真実になっていく。他者がこれを打ち消すことは極めて難しい。さらに理解困難な事柄を超常的な存在で理解していくことが、多くの人の共通認識となってしまう。こうした超常的な存在で社会の秩序が維持されるのであれば、好都合であろう。宗教はまさにこうしたものである。
 他方、近代科学の展開の中で、我々の存在について、かなりのことが分かってきた。もちろんまだまだ分からないことも多く、我々の知識は、現時点なりの仮設・標準モデルとされる。この標準モデルでは、超常的な存在を排除する。このため宗教の再考が求められることとなる。ただし、それを信じている人に対して、再考を求めるのは容易ではない。
 また、我々が今日持つ世界理解の標準モデルで、それなりに秩序のある社会が作られる保証はない。今日繁栄している生物はそれなりに生存競争に打ち勝ってきたものであり、自らの生存のためにいろいろと争ってきたことは明らかである。こうした生物としの人の性に鑑みれば、宗教を放棄すれば、我々の社会に、今日以上の混乱がもたらされる局面さえ予想される。
 しかし、これまで神によって与えられていた人生の目的を、今後は自分で探さなければならない

(2) 目的の不在―目的の設定―
 それでは、現代科学の成果・標準モデルの中に人生の目的は見いだされるのか。
 宇宙が誕生してから、地球が形成され、生物が生まれ、人類が繁栄するまでの歴史に鑑みれば、我々が生きることに、予め決められた目的などは見いだせない。
 このため、各自はどのように生きようと勝手であろう。ただし、それが社会の中で、ある意味での整合性がなければ、社会秩序を乱すとして制裁を受ける可能性がある。このことから、各自の生き方は、社会で受け入れられるか各自なりの配慮が必要である。
 いずれにしろ、予め与えられる目的が見いだせない中で、各自なりに目的を設定し、それを宣言することとなる。そして、各自がそれを目標として生きくこととなっている。

(3) 社会を創る―共通認識の形成―
 各自の描く目的を統一する必要はないし、もとより不可能であろう。しかし、新たな社会を創っていくためには、各自の目的を出し合い、共通認識を形成し、可能な社会を描く努力をしていく他はない。J.ハーバーマスの言う公共圏における熟議が求められている。ただし、この可能性にはいろいろと議論があるようだ。

3.生き方の原則
 次に、各自の目標に向かった生き方は、各自なりに正しく考え、正しく生きることを前提にする必要がある。各自が時と場合によって判断基準を変え整合性のない態度を取るのであれば、共に生きていくことが困難になる。
 この正しいには2つの内容がある。「道徳的に正しいこと」と「真実に寄り添うこと」である。(英語では前者が"Justice"、後者が"True"、そして2つ重ねたものが"Right"であろうか。)

(1) 正義に生きる
 このうち道徳的に正しいことについては、正義論と言われ、いろいろな議論がなされてきている。功利主義、義務論、徳論など、個人によって異なる立場がある。このことについては、何が正当か各自なりに考える必要があるが、基本的には、各自が自分の道徳的位置付けを明確にし、それに沿うことが大切であろう。

(2) 真実に生きる
 他方、真実に寄り添うことについては、自らしっかりと考え、何が真実か見極めようと努力することが大切である。少なくとも、他者に判断を委ねるポピュリズムに陥ることは避けたい。「思考しないことが凡庸な悪を生む」は、政治思想家 H.アーレントの言葉である。
 既に述べたように、我々は、常にあらゆる情報を十分に持ち正しい判断をしている訳ではない。欠落する情報を既存の自分自身の知識・経験から補って、自分なりに物語を創り、理解し判断している。つまりいろいろなレベルで偏見に陥ることが避け難いということである。このことを十分認識し、欠けている情報を自覚し、異なる物語の可能性を念頭に置いておく必要がある。


4.整合性のない現実社会
 以上のように各自なりの生き方としては、各自なりの目標を宣言し、各自なりの倫理観に則り、正しく判断・行動していくことと考えられる。
 しかし、多様な目標、多様な倫理観があるとしても、我々多の生き方は、このような生き方とは大きく離れてしまっているのではなかろうか。
 例えば、温暖化ガスの排出抑制を認識しながら、飛行機等による移動で膨大な排出ガスを伴う観光の振興を標榜している。あるいは、所得等の格差解消を緊急の課題と捉えながら、金融投資を奨励し、労働分配率を引き下げさせている。さらには、世界平和を謳いながら、難民の受入れなど人権問題を蔑ろにしている。
 こうした中で、自分自身がどう生きるか、自分なりに考えていかざるを得ない。自分の生き方をアウトソーシング(外注)することはできない。


U.私の生き方
1.私の今
 生き方の基本的な考え方に沿って私自身はどう生きるか。
 これを述べる前に、まず私自身の現在の立場を整理しておく。
 団塊の世代で約2年で後期高齢者に達する。所得のための仕事は約8年前に終え、年金主体に蓄積を若干ずつ取り崩しながら生活しており、今後、健康を害さない限りは、何とか生きて行くことができる位置にいる。
 日常生活については、富山学研究所を主宰し富山の研究をホームページに掲載し続けている。また、2アールの家庭菜園で有機栽培に挑戦し試行錯誤している。いわば晴耕雨読の生活である。
 日々の運動としては、程よい距離に大規模な書店があり通っている。また小一時間程度のサイクリングに出ることも多い。
 最先端の科学技術の進展に関心を持つと同時に、これまでしっかりと学んでこなかった人文社会学の文献を紐読いている。いずれにしろ自分にとっての新しい知識で興味津々である。
 なお、平日は1時間程度、小学生の下校時の見守りを行っているが、これ以外は、社会的な活動はやっていない。

2.私の目的
 私自身が描く目的は、皆で愉しく生きてい行くことである。I.イリイチの言うコンビィビイアリティを求める「共愉社会」である。
 人生のこの時期において、また社会的活動をほとんど行っていない私が、自分の目的としてこのような社会の在り方を掲げるのは奇異であろう。しかし、このような社会の実現を願って、自分自身の行動を方向付けたいと思っていることは事実である。ホームページの継続、子どもの見守りは、このためのささやかな行動である。さらに機会があれぱ生活の内容を広げたいとも思っている。

3.私の正義
 私自身の規範については、基本的には、J.ロールズ的な。そして社会全体での共生・整合性に配慮も多少はすべきという意味で若干の宗教的左派指向を持つ。
義務論(リベラリストの立場)である。
 (ここでの「義務」は自ら課す「義務」であり、モラルファンデーションでの「義務への拘束」での「義務」とは別である。)
 ただし、このような方向性は他から押し付けられるのでなく自ら選択していくことを前提とする。
 功利的な発想は、共愉社会という目的からは論外であろう。
 アリストテレスあるいはコミュニタリアン的な徳論は、既存の発想を追求するだけで、新たな社会を築いていくことはできないと思われる。
 ロールズとコミュニタリアンの正義論の大論争に見られるように、義務論から新たな社会が導いていけるかは困難な課題があろうが、徳論に期待はできない。

4.大転換
 ところで、今日の社会は、地球温暖化、格差の拡大など解決困難な課題を抱えている。このため必要な大転換について考え巡らし、生活を改めていくことも念頭に置かざるを得ない。
 大転換について、どのような社会を描くことができるのか、かなり飛躍した内容となるが、私なりの思いを提示しておく。
 金融資本主義市場経済の下では、人類社会に限界が来ていることを指摘する声が次第に大きくなっている。そして来るべき社会は、多様な共同所有「コモンズ」と多様な協働「コモニング」により経済的成長から脱却する必要がある。
 ただし、こうした社会の構築は、これまでの歴史の中で、R.オーエンを始め多くの人が試みてきており、失敗してきていることも事実である。柄谷行人のNAMの解散もこれに類するものであろう。
 しかし、覚悟して大転換を図ることが必要で、これを超えなければ人類社会の崩壊に至るように思われる。
 多分、人類の階梯を一段昇る必要があるのだろう。


5.私の生き方
 私の生き方は、以上のような発想で日々の生活を律していくことが基本である。
 なお、個人的な考え方を主張するとしても、それを直接他者に強要する発想はなく、行動を興しそれが模倣(ミメーシス)されることを期待する。



表紙に戻る

(Jul.24,2021Rev./May.09,2021Orig.)